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夕幻の花

マチビトが魅せた舞台(後編)



 鳴山市音祢町20‐3‐18
 喫茶『夕幻花』
「なんていうか……喫茶店ってより、スナックの方が合う名前だねぇ」
 メモに書かれていたその店を眺めながら、思わずつぶやいた。
 ただ、名前を気にしなければ普通の喫茶店である。夜なのにわりと人が出入りしているのはそれなりに繁盛している証拠だろう。ディナーセットなんかもあるのかもしれない。
 時刻は八時過ぎ。約束の時間にはちょうどいい。
「それじゃ、行きますか?」
 独りごちてドアをすり抜けようとして、
 ゴチ!
 頭をぶつけた。
「???」
 ドアに触れる。
 ぺたぺたぺた。
 色々と触ってみるがとくおかしなところはない――
「って、何であたしこのドアにさわれるの!?」
 少し考えて、渚はドアノブに手をかける。久しぶりのドアノブの感触になんとなくメモの切れ端同様に感慨深げなものを感じながらドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
 お世辞にも広いといえない店内に明るい声が響く。
 昨日聞いた優しい声だ。
「あ、渚!」
 カウンターに遊華がいた。その横には無表情にグラスを拭いている男性がいる。ドレスシャツにエプロンをつけて、いかにも喫茶店の粋なマスターといった風情の男性だ。
「来たよー、遊華」
「いらっしゃい」
 手招きする遊華に従って、渚はカウンター席に座る。
「あ」
 腰を下ろした椅子に座ったという感触を感じる。よく考えたらそれだけではない。この店の中には重力が感じられる。事故からこっちまったく感じなかった感触というものが、この店にはあった。
「どうかした渚?」
「ん…なんか、座ったなぁ……って」
 その答えに遊華は優しく微笑み、
「夜はそういう店になるからね。ここは」
 遊華の横にいた男性がそう言った。低く渋く深い。それでいて優しさを感じる声。
「君が黛君かい?」
「あ、はい」
 なんとなくドギマギとしながら渚はうなずく。
「私は刻儀(こくぎ)逆真(さかまさ)。この店のオーナーをやっている。よろしく頼むよ」
「あ、どうも」
「何か食べるかい? 遊華の料理はなんでもウマイからね。好きなものを注文するといい」
 そう言いながら逆真は渚にメニューを差し出す。
 それを受け取って、渚はまた驚いた。
 本当にこの店にいると自分が幽霊であることを忘れてしまいそうだ。
「それじゃあ、ナポリタンお願いできる遊華?」
「うん。ちょっと待っててね」
 注文を受けた遊華は笑みを残して厨房へと引っ込んでいった。
 お店で料理を頼んだときこんなにワクワクしたことが生前にはあっただろうか。本当に楽しみで仕方ない。
 そんな顔をしている渚の元へ一人のおじさんがやってきた。年齢的には四十後半といったところか。
「お嬢ちゃん。新入りかい?」
「え?」
「違うよ。ゲンさん。彼女は遊華の友人さ」
「おぅ? そいつはすまねぇ」
 笑いながらゲンさんと呼ばれたおじさんは頭を下げる。
「いい店だろ?」
 ゲンさんとやらは笑う。どうにも酔っているようだ。
「俺ら幽霊も食事を楽しめる。
 自分が死んだって自覚してから、諦めていた酒の味を再び楽しめるんだぜ?」
 渚はその言葉に驚いた。
 つまり、目の前にいる酔っ払いも自分と同じ幽霊だということだ。
「逆真のダンナはいいヤツだし、遊華ちゃんの料理はうめぇし、文句の言えない店だよなぁほんと」
「ゲンさん。お世辞を言っても何もださないよ」
 言いながらも逆真は薄く微笑みを浮かべ、チーズとアスパラのベーコン巻きを差し出した。
「あんがとよ」
 不思議な気分だった。半年振りに自分が人間であることを思い出したような。そんな気分。
「はい。ナポリタンお待ちどうさま」
 そんな感慨深げな気分に浸っていると、遊華が料理を持ってきた。 「ありがとう」
 受け取ったお皿から伝わる温度。鼻腔をくすぐる匂い。久しく味わうことのなかった感覚。五感蘇るようだ。
「ゲンさん、またそんなに飲んで……。マスターもゲンさんをそんなに甘やかさない」
「どうにも私は世辞に弱くてね」
「がははは。だから俺はつまみが欲しくなるとダンナに世辞を言うのさ」
 そんな会話を横に、
「いただきます」
 手を合わせて、フォークを握る。
 自分の動作の一挙一動に感動しながら、ゆっくりと出来立てのパスタを口に運ぶ。
 おいしかった。元々おいしいということもあるだろうが、それ以上に久々の食事ということがその理由なんだろう。
 気が付くと涙が出ていた。
「わかるぜ。お嬢ちゃん」
 ゲンさんがしんみりとうなずく。
「俺もそうだった。初めてこの店で食事したときな、感動したからよ。生きてる時、食事ってのは当たり前過ぎて有り難味ってのを感じられてなかったんだよな。
 でもよ、何日も何週間も何ヶ月も……あるいは何年も幽霊やって、忘れちまったよな。食事なんてよ。だから、余計、うめぇんだよな」
 渚はゲンさんの言葉にただうなずきながら、ゆっくりと味わうようにパスタを口に運んでいった。


 味わいながら、だが一気に食べ終えて、ゆっくりと息を吐く。
「ご馳走さま」
「はい。お粗末さまでした」
 遊華は食器を手に取り、流しへと向かおうとして、
「遊華」
 逆真に声を呼び止められた。
「なんですか?」
「その食器は私が洗おう。君は黛君と話しでもしているといい」
 そう言って逆真は遊華の手から食器を取ると流しへと向かっていった。
「ありがとうございます」
 言ってから、遊華はアイスティを二人分作って一つを渚に渡す。
「ありがと」
 遊華は渚の隣に腰をかけ、アイスティを一口含む。
「あのさ、遊華」
「なに?」
 遊華に訊きたいことがあった。店に入ってきたときから、それは疑問だったことだ。ただ五感でモノが感じられる感動に、そのこと忘れていただけ。
 だから、一息ついた今、訊く事にした。
「なんで、メイド服なの?」
「え? 変ですか? 可愛いと思うんですけど」
「いや、まぁ、確かに似合ってるし可愛いからいいんだけどね」
 てっきり逆真が趣味で着せてると思っていたのだが、どうやら本人の趣味だったらしい。
「まぁ、っていうのは、半分冗談で――実際問題。このお店、どうなってるの? 幽霊の私が平気で食事できるけど」
「実は、私も詳しくはしらないんです……。【幽霊が触れるモノ】なら私でも作れるんですが、それだって限度がありますし」
「ってことは店内の食事以外のモノは遊華が作ったわけじゃないって話よね?」
「はい。なんでも、元からこの建物自体が持っていた超能力のようなものらしいです」
「超能力って……建物が?」
 信じられないと、渚は天井を見上げるが、それでも今ここで経験した事から考えると、信じざるを得ない。
「こっちからも一ついい渚?」
「なに?」
「踊ってくれません? 渚が踊っているところ、もう一回見たいんですけど」
 自分は遊華に弱いんじゃないのだろうか――渚は本気でそう思った。
 公園の時にも思ったのだが、遊華の笑みにはどうにも弱い。
「おっけ。いいわよ――でも、お店の中で踊るのはまずいんじゃないかな?」
 うなずいてから訊ねると、遊華は困ったような顔をする。
 と、
「構わないよ。今日はお客さんも少ないからね。あそこを使うといい」
 逆真が指したのは一段高くなった、小さな舞台。
「なんで、あんなものが?」
「元々ここはジャズバーでね。その名残さ」
 ということは、かつてはあそこでジャズが演奏されていたことがあったということか。
「広くないけど、平気?」
 遊華に訊かれて、
「大丈夫。使える技は減るけど、問題はないよ」
 渚は胸を張って答えた。
「それじゃあ、頼むよ黛君。舞台挨拶もしっかりね」
「え! 挨拶もするんですか?」
「それはそうだろう? 小さくても舞台であることには変わりないのだからね」
 微笑を浮かべながら逆真はそう言った。


「え〜っと、こんばんわ。黛渚って言います。えと……今日はここで、ダンスを踊らさせてもらうことになりました」
 確かに店内にお客さんは少ない。
 ゲンさんの他に数人だけ。観客としてカウントすれば、遊華と逆真も入るが、それでも十人に満たない数だ。
 そもそも大会となれば、もっと人数がいるはずだ。だから、緊張なんてしていられない。
「本当に見せたかった人にはもう見せることができないので、せめて、ここにいる人達だけでも、その人の代わりに見ていてください」
 頭を下げる。緊張なんかしていられないはずなのに、体が硬い。
 これでは、大会に出てもまともな成績が出せなかったのではないか。
 そんなことが、胸の裡に溢れていく。
 踊らないと。踊らないと。踊らないと。固まってないで踊らないと。母さんにみせるつもりだったのだろう。
(母さんに見せる……)
 そう思った途端、頭の中でなにかスイッチが入るような音がした。
(母さんが楽しみにしていた舞台でもこんなガチガチになって踊るつもりだったのかあたしはっ!)
 大きく息を吸う。不思議と体が軽くなる。
(よし!)
 内心で気合を入れてから、渚は全身でリズムを刻み始めた。


      ●


 渚が踊り始めるのと同時に、お店に二人の女性が入ってきた。一人は馴染みの客。もう一人は、彼女が連れてきた人だろう。初めてのお客さんである。
「いらっしゃい。亜弓(あゆみ)さん。そちらは?」
 真っ直ぐとカウンター席へとやってきた二人にお冷を出しながら逆真は訊ねた。
「仕事の同僚の(みやこ)さん」
「どうも」
「こちらこそ」
 都と呼ばれた女性に逆真は挨拶を返す。
「今日は舞台を使ってるんですね」
 メニューを注文しながら、亜弓が尋ねてくる。
「ええ」
 逆真がうなずき、
「遊華ちゃんの友達だそうだ。何でもダンサーらしくてな、遊華ちゃんに頼まれて舞台に上がったんだよ」
 と、ゲンさんが補足する。
「へぇ。ブレイクダンスでしたっけ? あれ? 女の子のダンサーもいるのねぇ」
 感心しながら、亜弓は、ねぇ都さんと促すが、肝心の彼女は放心したように舞台に見入っていた。


      ●


 踊り始めるのと同時にお客さんが二人やってきた。
 それでも気にせずに、彼女は踊った。
 見せられなかった人の代わりに今は遊華が自分を見ている。お客さん達にも見てもらいたいが、それ以上に今は遊華に見て欲しい。
 出会って間もないのに、無二の友人のように感じる彼女に自分のダンスを見て欲しい。
 体がイメージ通りに動く。動きに合わせて流転する風景の一つ一つを見て取れる。
 気持ちが良い。ここまで気持ちよく踊れるのはいつ以来だろう。
 ふと、先程入ってきたお客さんの一人と目が合った。
 息を呑む。
(遊華ごめん! ――私はあの人にダンスを魅せたい)
 そう、あの人――黛都に、母さんに、自分のダンスの全てを魅せたい。


      ●


 ダンスが後半に差し掛かった頃には、観客全てが渚のダンスを見ていた――いや、渚に魅せられていた。
 人並みの感受性があれば、誰もが彼女の思いを汲みとれるだろう。
 見せたい――魅せたい――見て欲しい――魅て欲しい――
 そんな強い思いが。
 朝、姫在から届いたFAXは住所だけでもよかったものをわざわざ人間関係やプライベートな事まで完全網羅してあった。
 それを見て、遊華は都と亜弓が同僚であることを知って、今回――亜弓に都を連れて来てもらったのである。
 そして渚は都に気付いたのだろう。ダンスは途中から遊華の横に座っている都に宛てのメッセージへと変わっていたように思えた。
 もしかしたら、今回も余計なお世話になってしまうかもしれない。そんな気がした。
 だけど、それでも――
(渚……がんばってね)


      ●


 ダンスは最初から見ていた人にとっても、渚にとっても、もちろん途中から見始めた人にも、あっという間だった。
 やるだけのことはやった。
 見てくれていた人たちに言うことは一つだけ。
「ありがとうございました」
 言うと同時に、拍手が起こった。
 もう一度だけ、頭を下げて舞台から降りる。
 遊華は戻ってきた渚に声をかけようとしたが、
「渚!」
 それより早く、遊華の背後から声が上がった。
 都は渚に駆け寄って、彼女に触れようとする。
 だが、その手は渚に触れることなく、すり抜けた。
「え?」
 都の呆けた声。それで、渚は自分が幽霊であることを思い出した。
「ごめん、あたし幽霊なのよ」
 笑顔で、渚は言った。
「で、偶然とはいえ見たんでしょ? あたしのダンス。どうだった」
 楽しそうに言う渚に、都は何か言おうとしたことを飲み込んで、笑った。
「自慢するだけのことはあるじゃない」
 多少ぎこちない部分のある二人の笑顔。でも、交わす言葉は本心。
「このお店さ、中に入ってきた幽霊の姿が見えるようになるお店なんだってさ。
 だから、母さんにもあたしの姿が見える。まぁ、お店の外に出たら見えなくなくっちゃうんだけど……母さんにダンス見てもらえて嬉しかった」
 笑顔のまま、彼女の頬に一筋の雫が伝う。
 都はそんな娘に涙を見せぬように微笑んだ。
「母さんもよ。見れてよかったわ。あなたに触れないが残念だけど」
 笑ってはいるが本当に残念そうな彼女に、
「黛さん」
 逆真が声をかけた。
「はい?」
「これを」
 手渡したのは焦げ茶色の手袋。
「これは?」
「手袋越しでなら、幽体に触れることが出来ます。抱きしめるのはムリですが、せめて……」
 それ以上のことは、逆真は口にしなかった。
「ありがとうございます」
 都はそれを受け取り、渚の頬に触れた。
「母さん……」
「あなたがこれから天国に行くのか、それともまだ幽霊をやるのかはわからない。
 でもね、私の心配だけはしないで欲しいの。心残りがないって言ったらウソになるけど、一番の心残りだったダンスが見れたから……」  そこで、大きく深呼吸をして都は顔を上げた。
「母さんは……帰るね。あなたのことをずっと見てたら、たぶん涙がでるから。渚には笑ってて欲しいから、私の涙を見せないように、ね。こっそり家を覗きに来るのもだめよ?」
 手を離し、手袋を外す。
「ありがとうございます」
「もう、よろしいんですか?」
「ええ。充分です」
 逆真に手袋を返し、都は亜弓に向き直った。
「ごめんなさい金子さん。せっかく連れてきてもらったんですけど、私、帰りますね」
 弓華さんはうなずく。
「あ、そうだ渚。最後に一言だけ」
 入り口のドアに手をかけながら、都は振り返る。
「ん?」
「元気でね!」
「………っ! 母さんも元気でね!」
 そうして、都は笑顔のまま店を出て行った。


      ●


 ぼんやりと、渚と都を眺めている遊華の頭に、突然ポンと手が置かれた。
「あの二人……偶然じゃないのだろう?」
 逆真が小さな声で訊いてくる。
 考え事をしていたところにいきなりであったため、反応できずにいると、逆真が微笑む。
「でも、君の病気でここまで良い方向のエンディングに向かうのは珍しいね」
「あの……ほとんど成功していないかのような言い方はやめてもらえません? 悲しくなるんで……」
「君が自分で正しいと思ってやったころであるなら胸を張っていいと思うよ。それが成功だろうが失敗だろうがね。
 それにほら、今回は成功したんだ。黛君には特に何かを言う必要はないかもしれないけれど、こっそり胸を張るくらいはいいんじゃないかな?」
 笑顔でお店を去ってゆく都を見ながら。遊華は逆真の言葉にゆっくりとうなずいた。


      ●


 十時を回り、閉店の時間となった。
 残っているのは、逆真と遊華、そして渚。ちなみにゲンさんも残ってはいるが店のすみっこでイビキをかいている。
「ねぇ、あたしさ、遣り残しを終えたでしょ? いつ成仏できるの?」
 その問いに逆真は静かに答える。
「それは君が決めることだよ。黛君。
 正確にいうと成仏とは違うんだがね、その辺は難しいから端折らせてもらうよ。とにかく、別に成仏したいと願えば、未練が有ろうと無かろうと、誰だって成仏できるんだ。
 未練を果たしたものが成仏できるというのは、それを終えた後に、『これなら成仏してもいい』という思う為にそうなるだけ。
 だから、今すぐにでも、逝こうと思えば逝けるんだよ。まぁ、ゲンさんみたいにこの店が気に入ったのならいてくれても構わないけどね」
 渚はその言葉を噛み締めるように反芻する。
「幽霊になった人の今後――どうするかは、本当に自分しだいなんです。だから、今、渚がどうしたいのかが、一番重要なことなんです」
 深く呼吸をして、気を落ち着かせる。
 このまま成仏するのも悪くないが、もう少し幽霊をやっていたい気がする。せっかく友達も出来たのだから。
「そうね……」
 渚は少し考えてから、
「あたしは――」
 胸を張るように、今を楽しむように渚は自分の思いを二人に告げた。



                                       マチビトの魅せた舞台――closed



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