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夕幻の花


ヨミビトを思い出す唄




開 店 前 準 備(プロローグ)



 ふと、気が付いた。
 今まで自分がどうしていたのか、何をしていたのか、眠っていたのか散歩でもしていたのか、それすらもよく分からない。
 だが……ふと気が付いた――いや、あるいは目が覚めたというべきか。
 どちらであっても、現状あまり大差はない。
 見慣れた湖のほとり。いつも自分が歩く散歩コース。
 そこに、自分がいることに気が付いた。
 人里の明かりの少ないこの場所で、星々と下弦の月は湖面に映りこみ、ゆらりゆらゆらと揺らいでいる。幾度みても飽くことのない綺麗な場所。
 でもどうしてここにいる?
 ――わたしはなんで。こんなところにいるんだろう?
 うまく……思い出せなかった。
 目を瞑り、ゆっくりと思い出そうと試みる。
 だが、何一つ思い出せなかった――いや、正しくは違う。
 自分の名前。彼氏。家族。友人。昨日の出来事今日の出来事。あらゆる事は覚えている。
 思い出せないのは……何一つ思い出せないのは、なぜ自分がこの場所にいるかという事。その事に関しては何一つ思い出せない。
 月や星座の位置から推測するに、いつも散歩をしている時間である事には間違いがなさそうだ。
 だとしたら、自分は間違いなく散歩に出たのだろう。
 ただ……
 ――わたしはいつ、家を出たの?
 そこだけが、記憶がない。まるでそこだけが、記憶と言う黒い紙に修正液でも垂らしたかのように真っ白だ。
 がさっ……
 草木が擦れる音がして、彼女は背後に向き直る。
 そこに現れたのは一人の少年。
 ――お、と、こ?
 彼を見た瞬間、突然、激しい感情と感覚の群れに襲われた。
 恐怖。憎悪。嫌悪。畏怖。憤怒。悲痛。困惑。苦痛。快楽。拒絶。
 様々な思いが入り混じる中、もっとも強大な感覚。それは、
 ――こないでっ!
 ……拒絶。
 だが、少年は近付いてくる。こちらの制止……いや、拒絶を聞かずに。
 さらに近付いてくる。再び拒絶の叫び声を上げる。だが、少年は無視する。
――ちがう……無視している雰囲気はない。もしかして、聞こえてない……?
 それに気付き愕然とする。少年はすでに手の届く距離まできている。
 ――近寄らないでぇぇぇっ!
 最後の拒絶。
 そして、少年(・・)は悲鳴を上げた。

     ◆


 からん、からんからん…
 入り口のドアに付けられた鈴が、来客を告げる。
 店の奥にある厨房で皿を洗っていた刻儀逆真は、その鈴の音に気付くと手を止めて、カウンターの前まで出向く。
「いらっしゃいませ」
 お客さんは、白いスーツに身を包んだ小柄な男性で、神経質そうにも見え、どかか柔和そうにも見えるという変わった印象を受ける男だった。
 彼はそのままカウンター席までやってくると、
「アメリカン一つ」
「はい。他には何かご注文は?」
「いや、いい」
「わかりました」
 メニューも見ず注文をして、何かのプリントを読み始める。
 この店では特にランチメニューなどは作っていないものの、時間が時間である。軽食も頼まずにコーヒーだけということに、変わっているとは思ったが別に詮索する気はなかった。
「アメリカン。お待ちどうさまです」
「どうも」
 男はコーヒーを受け取ると、視線をプリントから逆真へと移した。
「あの」
「はい?」
「さる筋から聞いたんですけど……その――ここって、オカルト系の相談を受けてくれるって、本当ですか?」
 男の問に、逆真は眉を潜めた。
 『喫茶夕幻花(ゆうげんか)』というこの店は名前の通り喫茶店であり、決して心霊相談所ではない。ついでに言えば人生相談所でもメンタルクリニックでもない。
 さらに付け加えるとするなら、マスターである逆真は、別に霊能者ではないし、除霊師や祈祷師だった過去もない。
 どの筋からの情報だかは分からないが、七割強は間違っている。
 正しくはたまに、この店にやってくる幽 霊(オカルト)からの相談に乗っているのである。それだって別に自ら望んでやっているわけではなく、成り行き上でやっているだけだ。
 と――いえども、逆真はこうやって自分を頼ってやって来た人間を無下に出来る程、出来た人間ではなかった。
「もしかして、ガセ……ですか?」
「あ、いえ……確かにそういった相談を受け付けていた覚えはありませんが、そういった方面の知識は確かに――私は人よりはあるかと思います。ですので……その、もし私などでよければお話くらいなら聞けると思いますが」
 ガセネタをつかまされた事にか、それとも相談が出来そうにないからか、あるいはその両方か。とにかく、どれであるかは知れないが、かなり落胆した表情を浮かべた男に、逆真は思わずそう言って手を差し伸べた。


     ※


 とりあえず、柊遊華は眉間に皺を寄せてみた。それだけで、何となく難しい事を考えているように見られる気がするからだ。
 そして、考えるポーズを取るからには何かを考えなければないない。何を考えるか――それは決まっている。
 今、自分の目の前にいる彼――原坂(はらさか) 理人(りと)の言った台詞についてだ。
 すなわち、
「なぁ、柊。お前ってワリとオカルト系に詳しいんだろ?」
 である。
 確かに、自分はそっち方面の人間であるし、知り合いのツテで除霊の真似事をしたこともあるが、どれも世の中の裏側での出来事であり、表舞台に出てくる話題ではないはずだ。
 ましてや、学校内では自分がそういう人間だとは――なるべく――気付かれないように行動しているにも関わらず、こんな事を訊かれたのである。これはかなりの問題ではないだろうか。
 もしかしたら、ここの所、背後霊よろしく後を憑いて――失礼――ついてくる親友に気付いた人がいるのかもしれない。
 そして、なぜ自分は放課後に体育館裏によばれたのだろう――いや、これはどうでもいいか。
 そこまで思考してから、質問について何て答えるかを考え始める。
 理人を見る。
 世間的には珍しくともなんともないが、結構な進学校であるこの学校ではかなり珍しい金に染めた髪にピアス。そこに、目つきの悪さと出席率の悪さが融合し、クラスの――いや、学校内のアウトロー扱いされている少年。
 そんな彼が、真面目な顔をしてあんな質問をしてきたのである。
 状況は似ていた。思い出したくもない出来事。自分そのものが壊れかけていた中学時代の出来事と状況はそっくりだ。
 唯一の違いは、相手が本当に、真面目に、こちらに問いかけてきたということ。
 かなり真剣な顔をしてこちらの答えを待っている。
 昔は答えたせいで、自分の周囲に人がいなくなった。もし、逆真に会うことがなかったら今、自分はここにいなかっただろう。
 なら、今回は誤魔化すべきではないか――そう頭を過ぎり、彼の目を見る。
 こちらをからかおうとかいう雰囲気はない。冗談ではなく本当に藁にでもすがろうと思っているかのような顔。
 それが遊華の心を動かした。
 横にいる理人には見えない友人に視線で問う。
 彼女も『平気じゃない?』と、うなずく。
 そして、何かを決意するように、遊華はゆっくりと首を縦に振った。
「私が、というよりも私のバイト先の店長さんが……だけど。
 今から行く?」
 言葉を吟味するようにしばらく黙ってから、理人はうなずいた。


彼女にとっての十月二十五日

 まるで吸い込まれそうな闇。そこに写るは、歪んだ姿の金の月。
 ここはいつもの湖のほとり。
 わたしは、夜という名の天井から、下弦の月という電球がぶら下がっている空を見る。
 ――なんでわたしはこんな所にいるのだろう……
 すぐに頭を振って、その考えを思考から排除する。
 ただの散歩の途中だというのに、わたしは何を考えているのだろう。
 不安になった心を落ち着けるため、わたしは湖面で揺れる月を見る。
 闇は人にストレスを与えるっていうけれど、適度な明かりを持った闇っていうのはむしろリラックス効果があると思う。
 この場所でこうして湖面に浮かぶ月を見ながら、柔らかな風に撫でられ波音を奏でる木々の葉音を聞く。
 ほら。いちいち癒し系のお店になんていかなくとも、人を癒す物なんてどこにでもある。
「静かな夜ですね」
 そんな空想に耽っていると、突然わたしのものではない声が聞こえて驚いた。
 振り返ってみると、近くの木の陰から男性が現れた。
 まさしく、静かな湖畔の森の影からって歌の通りだ。もっともそこにいるのは、カッコウなどではなく、普通の人間。
 月明かりと星明りしかないはずのこの場所で、なぜか、はっきりと彼の姿を確認できた。
「こんばんは」
 黒い帽子に黒いコートを羽織ったその男性は、帽子を脱いでこちらに会釈をする。
 帽子の下から出てきたのはなかなか整った顔。そして会釈をした時に、撫でつけ後ろで結んで細く垂れている髪が揺れた。
 人当たりが良さそうで、優しそうなその男の人をわたしはなぜだか恐れている。
「あ、すみません。驚かせちゃいました?」
 そう言いながら彼は一歩踏み出した。
 瞬間――
「こないでっ!」
 わたしは無意識に叫んでいた。
 彼は、少し困った顔をして一歩引く。
「あ……」
 そんな彼を見てわたしは小さく声を上げた。
 だって、すごい悪い事をしたから。
 彼は別に何もしていない。ただ、話をしようとしてこちらに来ようとしただけだから。
「すみません」
 だから、わたしは頭を下げた。
 すると、彼は微笑する。
「謝らなくていいですよ。君が男性恐怖症だなんて知らずに近寄ろうとした私が悪いんだ」
 なんていうか、とてもやさしい笑みだ。
 彼との距離は2、3メートル。
 恐いという感覚は残っているが、この距離ならまだ安心できる。
 それにしても、男性恐怖症か……そんなもの、わたしは持っていた覚えはないんだけれど。
「もうちょっと離れたほうが良いかな?」
 真顔で尋ねられ、わたしは慌てて首を振った。
「こ、この距離なら平気です!」
「そうかい?」
 再び微笑みかけられ、なんでか自分でも分かる程赤面してしまった。
 そして、赤面すると同時に思い出した。わたしは男性恐怖症のケなんてない。彼氏だっているぐらいなのだから、間違いないはずだ。
 ……まぁ、もっとも、男性恐怖症でも彼氏を作ることは出来なくもないけど。
「綺麗な場所だね。君のお気入りの場所かい?」
「は、はい!」
 彼の声にわたしは空想から現実に引き戻され、思わず上ずった声で返事をしてしまった。
「いつも、ここにいるの?」
「え、ええ。大抵は……」
「そう」
 ひとりでうなずいて、彼は少し考え込む素振りをした。
 そして、少ししてから訊ねてくる。
「明日もここにいるかい?」
「ええ」
「実は訊きたいコトがあるんだけれど……今日は遅いから明日にしようと思ってね。君の親御さんも心配しているだろうから」
 とても優しい微笑み。思わずうなずいてしまう。夜の散歩はいつものことだから、別に親は気にしていないはずなのに。
「じゃあ明日。少し早めにここに来てくれないかな?」
「はい」
 わたしが返事をするのを確認すると、彼は再び微笑み、
「それじゃあ。また、明日。おやすみなさい」
 そう言って、きびすを返して木々の間に消えていった。



彼らにとっての十一月一日


「どうでした?」
 店に戻ってきた逆真に、遊華は不安げに訊ねる。
 逆真はどう答えるべきか考えたのか、少し間を置いてから返答した。
「本人はまったく気が付いていなかったみたいだったよ。どうしてあの場にいるのかも良く分かってないようだ。
 それに――あの様子だと、被害を受けたのは確実だろう。その周辺の記憶が無意識にだろうけど、消してしまっている節がある」
「そうですか」
 俯き、悲しげに遊華は息を吐く。それから、
「マスター」
「なんだい?」
 一枚の紙を逆真に手渡した。
「さっき、マスター宛に渋山警部からファックスが届きました。内容は湖でのケガ多発の解決です」
「正式な除霊依頼か……」
 逆真は嘆息する。
「それにしても……警部は私達の事を退魔師か何かと勘違いしてないかな」
 そう漏らしつつも無下にはせずにしっかりと最後まで読み再び嘆息した。
「ついでに、もし事を起こしているのが、例の殺人事件の被害者であるなら、除霊前に犯人の特徴等を聞いておいて欲しい――か」
「はい。だから、状況によっては――」
「彼女の記憶を無理矢理こじ開けないといけないな」
 実際、逆真も遊華もそんな事はしたくはない。出来るのであれば協力を求めるような形を取れるのが理想的だ。
「私の方の相談は、あの湖でケガをする生徒が頻発してるから調べて、あわよくば原因を取り除いて欲しい、という話だ。君の通ってる学校の先生だったかな、依頼人は。
 これは、まぁ――警察のほうと被るから良いとしても、君が受けた相談は……」
「そうですね。出来れば助けてあげて欲しいって言ってました」
 二つの相談と一つの依頼。全てを円満に解決するには、やはり彼女が自ら記憶を取り戻そうとしてくれなければならない。
 だが、彼女が死の直前までさらされていた状況を考えると、難しいかもしれない。
 もし自分だったら、と遊華は考える。そうしたら、きっと自分も同じように記憶を消すだろう。
 どんどんと表情が沈んでいく遊華に気付いたのか、逆真は遊華の肩を叩き、顔を上げた彼女に微笑む。
「希望がないわけじゃない。諦めるのはまだ早いよ」
「はい」
 逆真の言葉に遊華は自身を勇気付けるように力強くうなずいた。



彼女ににとっての十月二十六日


 湖のほとりで彼を待つ。
 昨日――いや、最近はどうにも、いつどうやってここに来たかの記憶があやふやだ。
 とはいえ、昨日の出来事――彼とであった事――については、しっかりと記憶に残っているからちょっと不思議。
 でも、いったいどういう事だろう?
 考えてもしょうがないのはわかっているけど、ぽっかりと抜け落ちている記憶と言うのはなかなか不安なものなのだ。おかげで変な妄想までしてしまう。
 たとえば、その抜けた部分でもしお酒を飲まされた挙句、さらに裸踊りでもさせられたたらどうしよう……とか。
 まぁ、我ながら馬鹿な妄想だとは思うんだけどね。
 どうにも記憶が曖昧だと、そういうマイナス方向に思考が行ってしまう。
 そんな漠然とした、どうしようもないような事を延々と考えていると、
「こんばんは」
 昨日聞いた、低く優しい子が響いてきた。
 不思議な事にその声を聞いた途端、なんだか顔が熱くなって来た。きっと赤面してるんだ。
 ついでに言ってしまうと、さっきのアホな妄想のせいで少し赤面してたから赤面度二十パーセントアップ。もちろん当社比。
「ちゃんといてくれたんだね」
 赤面をしてる事をなんとなく知られたくない私は、なんとなく俯き加減で返事をする。
「えと……こんばんは……それで、あのー……訊きたい事って何ですか?」
「それはだね……」
 彼はしばらく、なにやら言いづらそうに言いあぐねていたけれど、やがて意を決したように息をついてから、言った。
「この辺で連続レイプ殺人が起きているのは知っているかい?」
 うなずく。地元で起きている事件だから知っていて当然だ。それに、散歩に出かけようとするたび、親がうるさくその事を言ってくる。
「実はね、この湖のほとりで犠牲者が一人出たんだ。それでね、君はここに良く来るらしいから、何か変わった様子に気付かなかったかな、と思って」
「それ、いつのコトですか?」
「十月二十三日だよ。被害者の死亡推定時刻は十一時頃。だいたいその三十分前は強姦されていたと推測されてる」
 おととい……か。確かに散歩に来た覚えがある。
 だけど――
「すいません。それらしい人影なんかは見なかったです」
 思いつくコトがなかったので、素直に謝った。
 それにしても嫌な話だ。
「君が謝る事はないよ。見なかったのならそれで構わないのだから」
 そう言われて、なんとなくほっとする。
 ――と、そう言えば、
「なんでレイプ殺人だって分かったんですか?」
「簡単なことだよ」
 彼はそこで息を吐いた。
そういうこと(・・・・・・)をされた後が残ってたんだから」
「……っ!」
 なんてことなんだろう。そんなコトをされた挙句に、殺されたなんて……死んでしまった子があまりにもかわいそ過ぎる。そんな酷い奴――わたしなら……。
 わたしなら……? わたしならどうしようと思ったんだろう?
 でも、許せないのは確かだ。
 そんな思いが顔に出たのだろうか、彼が微笑みながらわたしに尋ねてきた。
「明日も、だいたいこの時間にここにいるかい?」
「え? ええ、いますけど……」
 事件の事を聞きたかったのなら、今日だけでいいはずなんだけど……。
「いや……別に事件の事はもう、どうでもいいんだ。明日は気晴らしに君と世間話でもしようと思ってね」
 どうやら思っていた事を読まれてしまったみたいだ。
「だめかい?」
 その言葉に、ためらわずに首を振る。
「友達も連れてきていいかな? 男の子と女の子、ひとりずつ」
「全然平気です……その、男の子の場合、あの……距離さえ開けてくれれば……」
「そうかい。よかった……それじゃあ、また明日」
 そう言って、昨日と同じように彼は去っていく。
 いったい、なにが『よかった』なのだろう?
 それはともかく、最近では彼と会うのが日課になっている気がする。しかも結構楽しい。
 う〜ん、ちゃんとした彼氏がいるんだけどな……。
 ……もしかして、これって浮気?



彼らにとっての十一月二日


「………ふぅぅ……」
 深夜、湖のほとりから帰ってきた逆真(さかまさ)は電気もつけずに椅子に座り込んで深く息を吐いた。
 彼女のようなタイプの霊との会話は精神の削りあいになってしまう事が多い。
 特に今回は話題が話題であった為、精神の削りあいだけでなく気苦労が共にあったせいだろうか、余計に疲れてしまったのである。
 椅子の背もたれに体重を預け、ぐったりとしていると、突然、居間の電気が着いた。
「すまないね。起きていたのかい?」
「おかえりなさい。起きてたっていうよりも、誰かが家に入ってきた気配がしたんで起きた――が正しいんですけどね」
 いつの間にか居間の入り口へとやってきて電気をつけてくれた遊華が微笑む。
 ネグリジェにどてらを引っ掛けた姿を見る限りは確かに今起きたと言われるとその通りのような気はするが――
「でもね遊華――君の持っているティーカップを見ると今起きたというのがイマイチ信用できないんだがね」
「んー……寝付けなかったのは確かですけど。ハイ、どうぞ」
 言いながら、その話題のティーカップが差し出される。
「ありがとう――それにしたって、これを用意するには、お湯を沸かす時間だってあるし、お茶を淹れる時間も必要だろう」
 鮮やかな紅の液体とたちこめる湯気の香りからした予想通り、飲むと爽やかな酸味が口に広がる。
「まぁ、お湯に関してはまだ熱いお風呂の残り湯です」
「な!?」
「もちろん冗談ですけど」
「…………………」
 一瞬だけ本気にしてしまった自分に、本当に疲れているんだな――と、認識しながら、遊華を半眼で見やる。
「実は寝付けなくて自分用にお茶を入れてたんです。そしたらマスターが帰ってきたみたいなんで」
「そういう事か」
 それならこうも早くお茶が出来るのを納得できなくもない。
「味はどうですか? ハイビスカスって初めて淹れたんですけど」
「うん。悪くない――今度、こういったハーブティーやフレーバーティーの類いもお店に増やそうか?」
「それは良いんですけど……マスター、売り上げがギリギリ黒のお店に思いつきでメニュー増やすのは危険だと思いません?」
 遊華は褒められた事の嬉しさと逆真の無茶な提案への苦笑が入り混じった複雑な顔をする。
「うぅん……そうかい?」
 そんな遊華の返答に、逆真は首を傾げた。
「ところで、(まゆずみ)君はどうしたんだい?」
 首と共にカップを傾けた時、ふともう一人いるはずの居候の姿が見えない事に気がつく。
「ああ。(なぎさ)だったら、なんでも空中遊泳を身につけたとかで、ここの所毎日、空中散歩に出てますよ」
「ははは。すっかり幽霊生活(ゴーストライフ)を満喫してるみたいだね」
「あんなに元気な幽霊っていうのもちょっと珍しいかもしれないですけどね」
 それからしばらく当たり障りのない雑談をしていたが、やがて話題がつき、長い沈黙が落ちると、彼女は真剣な表情で問うてきた。
「それで……あの、彼女は?」
 しばし、その遊華の眼差しを見つめてから、逆真はふぅと息を吐いて答える。
「まぁ、自分から思い出してくれるのならこの件に関する全ての事柄が一気に解決するのだけどね」
「思い出さなかったら……どうするんですか?」
「言うまでもないだろう?」
 少し、意地悪な言い方だったか――逆真は胸中で反省しながら頭の中で状況を推測する。
 幽霊は、精神とのリンクが肉体時以上に強い。それゆえに心中の感情がダイレクトに外に漏れる事が多い。
 現在、この家と店にそれぞれ居候している二人の幽霊達は自らの意思で幽霊生活を受け入れかつこの世に自らを縛りつける鎖を持たない。そのため自由気ままにのほほんとしているが、その場所に何らかの強い思いがあり自ら地縛――あるいは自縛か――している彼女はそういうわけにもいかない。  彼女の胸の裡の暗いモノが肥大していけば、やがて彼女自身も人に仇なすだけの『魔』――要するに悪霊と呼ばれるモノ――に成り下がる。
 それだけは勘弁して欲しいし、何より何一つ悪いことをせず、ただ人よりひどい死を受けただけの少女が墜ちた『魔』を退治するのは後味が悪い。
 彼女の記憶を戻し、地縛を解き、そしていまだ捕まっていない連続レイプ殺人犯を捕まえる――これが理想ではあるのだが……。
「やっぱり……無理矢理記憶をこじ開けたら……」
「『魔』に――墜ちるだろうね」
 陰鬱とした沈黙が落ちる。
 それから、
「だから、明日は君と『彼』を連れて行こうかと思っているんだけどね」
 この空気を和らげるつもりで逆真は言ったつもりだったのだが、そういう保険を連れて行くことで多少はマシになるだろうと、まるで自分に言い聞かせているように感じて嘆息した。



彼女にとっての十月二十七日(その一)


 何かがおかしい。それは感じていた。
 ここの所いつもそうだ。
 気がつくと夜で、なぜかこの湖のほとりにいる。
 何かがおかしい。
 昨日、私は彼と別れてからどうしただろう?
 家に帰った? どういう道を通った?
 それ以前に、ここ毎日、どうやって此処へ来ていた?
 全てがあやふやでちぐはぐな気がしてしようがない。
 それだけでも充分に問題だっていうのに、もう一つ気がかりがあったりする。
 三日前、私に近づいてきた男の子。まるで私の事など気付いていないかのように向かってきた見ず知らずの彼――そんなあの男の子に、私は手を掲げた。それと同時に、悲鳴を上げた男の子。だけど、その悲鳴のあとどうなった?
 思い……出せない。
 それに、昨日話題に出た連続レイプ殺人のこと。
 ひどい嫌悪を覚えた。
 最初はレイプという行為に対する嫌悪かと思ったけれど、アレはそんなものじゃなかった。
 なんていうか――そう、殺意。
 そんな事をした犯人に対する殺意だ。
 とのかく、犯人をメチャクチャにしてやりたかった。泣き叫んで命乞いさせて、その上で無残に散らしてやりたい――そんな残酷な殺意。
 私はこんなに残酷な人間だっただろうか?
 肺からゆっくりと空気を搾り出すようにため息をつく。
 空を見上げると、そこにある月は目を凝らさなければ分からないくらいに細くなっている。
 なぜか時計の類いを持っていない私が唯一時間の経過を確認できるもの。それがあの月。
 ふと、昨日、あの人にされた質問を思い出す。
『十月二十四日だ。被害者の死亡推定時刻は十一時頃。だいたいその三十分前は強姦されていたと推測される』
 昨日は何の疑問も抱かずに、散歩していたけど知らないと答えた。
 だけど、今思い返してみるとおかしい。
 そもそも私はここ最近の記憶があやふやなわけだ。即答でいるほど、記憶に自信がない。
 それでも、今日も来るだろう彼の為に、もう一度だけ二十四日の事を思い出してみよう。
 二十四日の夜――いや、二十四日の朝から自分の行動を思い返してみる。
 確か、あの日は友達とカラオケ行って――そう、それで帰りに理人が送ってくるって言ったのを断って、帰りがてら散歩しようと思ってここへ来て……ここへ来て……どうした?
 記憶がそこからない?
 そして、次に思い出せるのはあの人が初めて訪ねてきた夜。
 記憶が飛んでる……。
 そういえば理人。そう私には理人がいた。
 ちゃんと彼氏がいる。そもそも男性嫌いなんか持ってない。
 いや、問題はそこじゃない。なんで理人の事を忘れてしまっていたか、だ。
 おかしい。とにかくおかしい。何かがおかしい。
 おかしいくらいに記憶が混乱してる。
 ごちゃごちゃする頭で、とにかく思い出せる事を思い出そうと、乱雑に記憶の引き出しを開けまくる。
 とにかく、なんでもいいから忘れている事を思い出したかった。
 そういえば、記憶が途切れている二十四日のその途切れる一瞬前に何か人と出会っていた気が……
「こんばんは〜」
 ようやく何かを思い出しかけた時に、聞き覚えのない女の子の声がした。
 なんてタイミングが悪い。
 とはいえ、声を掛けてきた人に対していきなり不機嫌な声を返すのはあまりいいことじゃないから、私は勤めて平静を装って振り返る。
「こんばんは」
 ――あれ?
 きょろきょろと辺りを見渡すけれど、声の主らしき人はどこにもいない。
「もしかして、幻聴?」
「幻聴なんかじゃないって。こっちこっち」
 ……上? なんで上から声が?
 首をかしげながらも私は上を向く。
「や」
 するとそこには、手を頭の裏で後ろ手に組み胡坐をかいて浮いている女の子がいた。
「え? 浮いて……え?」
「そうなのよ。最近浮けるようになったのよ」
 どこか猫を感じさせる笑顔で楽しそうにうなずく。
「最近?」
「そう最近。少し間では浮遊が精一杯だったんだけどね」
「えーっと……浮遊って……今と何か違うんですか?」
「なんて言うのかな――浮遊って言うのは、そう浮遊っていうのは、その場でふよふよする感じ? 今のあたしはどっちかてーっと、飛行かな?」
 違いがよく分からなくて、わたしは眉をひそめる。
「そうその顔」
 突然、指を差さしてきて、彼女は告げる。
「上から見えたんだけどさ、さっきからそういう何か恐い顔して考え事してるじゃん。そんな顔をずうっとしてて疲れないのかなぁって思って」
「今も?」
「うん」
 どうやら、平静は装えていなかったのかもしれない。
「で、さ。まぁあたしのお節介かもしれないんだけど」
 そう言って、彼女は私に手を伸ばしてくる。
「気晴らし。空中散歩でもしてみない? お仲間さん」
 お仲間さん――その意味がよく分からないけど、空中散歩というのはちょっと魅力的だった。
 でも、なぜかここから離れたくないと心の奥底が訴えてくる。
 いや、それは訴えなんていう生易しいものじゃない。離れるなと言う強制。
 彼女の手を取れば散歩が出来るのに、どこかその心の奥底の声に抗えない。
「あぁ! もぅ! ほら、行こう! なんだか分からないけど、そんなに辛そうに何かに悩むんならやっぱり気晴らししとくべきだって!」
「え、え、え? わ、わわっ!」
 手を伸ばしかけ悩みだした私の手を彼女は無理矢理掴む。
 そして、私の足は地面から離れていく。
 不思議と風は感じなかった。でも気持ちがいい。
 反面、心の奥の私の知らない私が、ほとりへ戻れと訴え続ける。
「気持ちいいでしょ?」
「うん!」
 それは事実。胸の奥の不快感なんて無視すればいい。とにかく、うじうじしかけてた自分を吹き飛ばすにはいいかもしれない。
「あたしの手、放さないでよね?」
 うなずくと、彼女は加速して空高くへと上っていく。
 その加速感になんとなく目を瞑ってしまう。
 そして、ぴたりとその感覚が収まる。
「目を開けてみなよ」
 ゆっくりと目を開けてゆくと、眼下にはいつもの湖。そしてソレを取り囲むように街の明かりが輝いている。
 なんていったらいいんだろう……。普段見ている夜空を眼下に納めている感じ。でも、空にもちゃんと星はある。
 そう――うん。強いて言うなら、星空に四方八方を囲まれているかの光景。それが一番しっくりくるかもしれない。
「わぁ」
「あたし達限定の特別展望台へようこそってね」
 まさにその通りだ。見渡す限りの三百六十度パノラマ。確かにそういう展望台もあるけれど、本当の意味での三百六十度パノラマはこういった光景だけかもしれない。
 それこそ空を飛べる存在限定の――
「鳥って、いつもこういう光景を見てるのかな」
「どうだろ? どちらかって言うと渡りに食事探しにで、のんびりと風景を眺めるなんて出来ないんじゃないかな?」
 言われてみるとそうかもしれない。
 だとしたら、こうやって風景を楽しむ生き物って実は人間だけなのかもしれないなぁ、と思う。
「そういえば、あたしが空を飛んでることに対してはスルー?」
「いいコメント思いつかなくて」
 私はペロリとしたをだし、ちょっと誤魔化すように笑う。
「なんだ……そうゆう顔もできるんじゃん」
 意味が分からず私は首を傾げ、彼女は楽しそうに笑った。
「あ、そういえばお腹減ってたりしない?」
「え?」
 言われてみると、ここ数日食事を食べた記憶がない。
 あまりお腹が減ってなかったからだろうけど、気にしてはいなかった。
 でも、一度でも気にしだすと……
「空いてる……かも」
「それじゃあ、食べに行きましょうか?」
「え? でもこの時間に?」
「平気平気。たぶん、まだ起きてるだろうし」
「起きてるって誰かに作ってもらうの?」
 それって、
「じゃ、行くよ?」
 ちょっと問題ある気が――
 私がそれを言葉にする前に、彼女は急降下するように空を飛び始めた。



彼にとっての十一月三日


「やぁ。いるかい?」
 草木を掻き分けながら彼はいつもの少女に声を掛ける。
(何がいるかい――だ。そこにいることは分かりきってるというのに)
 どことなく自嘲気味に苦笑をして、いつもの定位置まで向かう。
 いつもと同じ光景。唯一違うところといえば、湖面に映る月の形くらいか。
 だが、今日に限って言うのなら、その光景の中に本来あるべき姿が存在していなかった。
「いな……い?」
 それを認識すると同時に、逆真(さかまさ)は瞬時に思考を巡らせる。
 この地に自らの無意識で自分を縛り付けている存在がいなくなる理由。
 成仏した。
 いや、それはいくらなんでもありえないだろう。少なくとも彼女は復讐を遂げるか、その復讐の意味を失うまでは消えはしないと確信している。
 ならば――なんだ?
 同業者によって祓われた?
 だがこの近辺の同業者の大半とは顔見知りだ。それに同業者のほとんど――自分のようにほぼボランティアでやっているような人間を除くけば――は、探偵業等と同様、依頼を受けてから仕事を実行する事がほとんどで、被害などが多方面に渡っていない限りは、依頼がかち合うことはない。
 だが、最近この地にやってきたようなモグリならどうだろうか。
 いやそれこそありえない。そんな情報が独自の情報網を持つ友人のネットワークに引っかからないはずがない。
 なら――自ら動いた?
 そんなはずはないと、頭を振る。
 だが稀に、他人の事情(ルール)なんて関係なく、自分の都合等で相手を振り回すことの出来る迷惑極まりない無自覚な迷惑の作り手(トラブルメーカー)という能力を持つ人間がいたりするが、霊視能力と併せ持つ事は能力者のルール上はありえない。
 もっとも、幽霊になってから能力が発露するものもいなくはないが、そもそも幽霊となりこの世へ未練がなくなってもこの世に留まる霊の絶対数は少ないし、なにより幽霊本来の能力とは別に超能力の類いが発露するのはさらに稀だ。
「なら……なぜ、ここに彼女がいないんだ?」
 考えれば考えるほど泥沼に嵌まるかのような思考のループを一旦中断する。
 ここで考えていても埒が開かない。そう判断した逆真は店に戻る事にした。



彼女にとっての十月二十七日(その二)


 そうして、彼女が私を連れてきた場所は、商店街のはずれにある喫茶店。
 夕幻花(ゆうげんか)という、どことなくスナックとかそういう感じのする名前お店だった。
 営業時間は午前十時から午後九時半まで。ここへ来るまで、ずっと月を見てたからなんとなく時間は分かる。たぶん営業時間は過ぎている……はず。人もいる気配はないし。
 でも、彼女はそんな時間のことなんて気にしていないかのようにドアを開けてお店に入っていく。
 私は彼女を見ながら、本当に入っていいのか逡巡する。
 そんな私に、開けたドアを支えて待っている彼女は手招きをする。
「迷う必要ないって。別にこういう事しても、ここの人たちは迷惑だなんて思わないし……何より、ここってあたしが居候してる店でもあるから――ま、自宅みたいなもんかな」
 そこまで言うならきっと大丈夫なんだろう。
 私はうなずくと、そのお店に足を踏み入れた。
「おぅ? おぉ……渚のお嬢か。お帰り」
「ただいま――って、ゲンさんまだ飲んでたの?」
 カウンター席の隅っこからしたおじさんの声に、渚さん――だよね。きっと――が呆れた声で返事をする。
「おうよ。ダンナと遊華のお嬢が二人とも閉店時間すぎた後に留守する時は、いつも留守番を頼まれてっからな。二人が帰ってくるまで飲み放題だ」
「ゲンさん、一度それで怒られた事ない?」
「よく分かったな! すでに三回ほどな。好きに飲んでもいいって言ったけど飲みすぎだ、てよ!」
 そう言っておじさんは豪快に笑う。そんなおじさんに渚さんは頭を抱えているようにも見えた。
「で、渚のお嬢。そちらさんは? 新入りかい?」
 訊かれ、彼女は思い出したようにこちらに視線を向けてきた。
「うーん、お店の――じゃないけど、一応、新入りかな。あたし達の」
 まただ。彼女はさっきから、私をまるで何かの仲間のような言い方をする。
 微妙な違和感。向こうは気がつけて、私自身は分からない何か。
 落ち着かない。
 齟齬? 不快?
「マスターと遊華がいないんじゃ、食べ物ないね」
「まぁ、そのうち戻ってくるさ」
 二人の会話はほとんど耳に入らない。
 この奇妙な違和感。どこか、最近の私が覚える記憶の曖昧さと似てる。
 もしかしたら、この違和感の理由が分かれば、記憶の謎も解けるかも……。
 さっきはどこまで考えてたっけ?
 渚さんが来る前――
 そう、記憶が途切れている少し前、ほとりで誰かと出会ってた。
 ほとり……湖……もどれ。離れるな。離れるな。モドレ。はなれるな。
 ――奴ガ来ルまで離レルな!
「痛っ……」
 湖を思い浮かべた瞬間、急に頭痛に襲われた。
 声をだしてしまったからか、二人の視線がこっちに向く。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと頭痛がしただけだから」
 出会って間もない私に、心配そうな顔をしてくれる彼女にどこか嬉しくて、内心で喜びながらうなずく。
「しかし、幽霊になってまで頭痛とは、お嬢ちゃんもエラく変わりモンだな」
 ドクン!
 心臓が大きく飛び跳ねた。
 今……ナンテイッタ、このおじさん?
 彼は笑ってるけど私はまったく笑えない。
 幽霊? 幽霊って何?
 もし私が幽霊ならば、さっきから暴れているこの心臓はなに?
 分からない。分からないけど、それが渚さんの言うところの仲間の定義。
 なら、私はいつから幽霊になった――否。私はいつ、死んだのだろう?
 ドクン!
 また、心臓が大きく動く。あるはずのない心臓が叫ぶ。
 きっと、思い出すなって言っている。
 でも、思い出さないと。
 よく分からない。心が奥底で思い出さないようにと主張するのに、私の意志は必死に何かを思い出そうとしてる。
 あぁ――でも、私の心が主張する理由はなんとなく分かる。
 だから、彼はあのほとりにやって来る。知りたいんだ。私を殺した犯人を。
 そうだ! 殺されたんだ! したり顔で寄ってきて! いい人ぶって! あそこで!
「あは……あはははは……」
「お、おい嬢ちゃん?」
「ど、どうしたの突然!?」
 だから自分で消したんだ。あの日の記憶を。汚れた自分を信じたくないから。彼に――理人に知られたくなかったから……。  理人の事を忘れていたのも、やっぱりこんな自分を知られたくはなかったから。理人を忘れれば、理人に知られるという恐れが一つなくなるから。
 男性嫌いになったのは、事件のせい。忘れたつもりでいるのに、本当は忘れてないから、あの時の恐怖が蘇る。
「あははは……はははははは………」
 分かれば単純。
「おい、渚のお嬢! この子をどっから連れて来た!?」
「どこって、ここから三十分位のトコにある湖のほとりだけど……」
「ダンナが受けた依頼ってのは! なぁ、おい!! お嬢……そこに出る幽霊絡みなんだぞ!」
 二人が何か言い争ってる。別にどうでもいい。
 そう私はこんな所にいちゃいけないんだ。湖のほとりに戻らないと。あそこでアイツを待たないと。あそこでアイツを殺さないと。
「ど、どうしようゲンさん」
「と、とにかく、ダンナと遊華の嬢ちゃんに連絡を取らねぇと……」
「じゃあ、ゲンさん電話お願い。あたしは彼女をなんとか収めてみる」
 今の私は他人の目にはどう映ってるんだろう?
 幽鬼? 般若? 悪鬼?
 きっとロクでもない姿だって事ぐらいは分かる。何せ、もうアイツへの殺意しか感じないんだもの。
「ねぇ、ちょっと落ち着いて」
「私に触らないで!」
 そう叫んで彼女の手を振り払った。だけど、ただそれだけで彼女は壁まで飛んでいった。
 ――私、何かした?
 壊れかけてる自分の唯一認識できる小さな理性が、目を白黒させる。でも、私の意思は笑うだけ。
 手を振り払う程度の力で人を一人吹き飛ばせる。そんな自分の手にした力に笑みを浮かべる。
 これなら、私はアイツを殺せる。
 私を殺したアイツを殺せる。
 私は、あの湖へと戻るため入り口へと足を向けた。
 それと同時に、入り口のドアが開き、知ってる男性が一人、知らない女の子が一人……そして――私にとって今、一番会いたくない人の三人が現れた。



彼らにとっての十一月三日(そのニ)


 逆真も遊華も、店に入った一瞬、事態が理解できなかった。
 店に入ったら彼女が居て、壁際で渚がうずくまっている。
 判断はすぐに行われた。状況はやはり分からないが、逆真と遊華は現状もっとも適切だと思える行動を取る。
 逆真は最後に入ってきた少年――原坂理人を何かあったらすぐ守れるような位置へと半歩移動して、彼の動きを手で制す。
 遊華は渚の元へと駆け寄って抱き起こす。声を掛け、特に問題がない事に安堵してから視線を店の真ん中辺りにいる少女に移した。
 理人を見たことで困惑したような表情を浮かべたが、それも一瞬だった。
 タガが外れかけている。どんなキッカケがあったかは分からないが、内側から溢れる殺意を彼女は身に纏い、そこに居る。
 だがその姿は悪鬼には見えない。長髪は風もないのに四方にたなびき、白い肌ゆえにその鮮やかな紅い唇が目立つ。目は自らの目的以外に興味がないかのように気だるげに瞼が下がり、まるでこちらを見下すかのような視線を投げかける。
 彼女の裡にある殺意が純粋過ぎるからか、その殺意は自らを纏うものを美しき幽鬼へと仕立て上げていた。
 事件直後の自分をイメージが形になったのだろうか。服のところどころは無理矢理剥されたかのような不自然さで着崩れ、殺意の化粧、気だるげな表情と相俟って妖艶さを引き立てていた。
「ご、ごめんね遊華」
「渚?」
 抱きかかえていた渚が彼女らしからぬ弱々しい声で謝罪を告げる。
「あの娘をさ、ここへ連れて来たのはあたしなんだ」
「それはいいけど……」
 本来、地縛霊を土地から離れるなど信じられない事だが、それの事は後回しだ。
「彼女に何か言った?」
「言うって……何を?」
「何……って……彼女、自分が死んでるのを自覚してなかったから――それを自覚させるような事とか」
 少し考えてから渚は首を振る。
「少なくとも直接的には何も言ってない……と思う」
「そう」
 だとしたら、何かの言葉から連想して事件を思い出した――という事だろうか。
 なら、まだ救いはあるかもしれない。
「ねぇ……理人――私ね、あの湖に帰らないといけないの……。その人と一緒にそこをどいてくれない?」
 同性である遊華でさえゾクリとしてしまうような妖しいな声で彼女が言った。聞いただけでまるで鳥肌を誘うぬるま湯に包まれるかのような妖声(ようせい)
彼女を知らない遊華でも元はこういう艶やかなタイプではなかっただろうくらいは分かる。
「何言ってんだよ」
 そんな彼女に、まるで何かを我慢するような表情で彼は言った。
 それから、逆真を押しのけるかのように理人は一歩踏む。
 慌てて逆真は制するがそれを払って彼は問うた。
「別にあんなところ戻る必要ないだろ?」
「どいて理人……あそこへ戻らないと……あいつを殺せない!」
 そう言って一歩進む。
 そんな彼女を真っ直ぐ見つめて、理人は声を上げる。
「別にあの場所じゃなくたっていいだろ! 人なんて……いつでもどこでも殺せるじゃないか! 違うか? 玲奈(れいな)!」



彼女にとっての十月二十七日(そのニ)


「別にあの場所じゃなくたっていいだろ! 人なんて……いつでもどこでも殺せるじゃないか! 違うか? 玲奈!」
 理人が手を広げ、私の行く手を遮るようにしながら叫ぶ。
 そうだ。確かにその通りだ。
 でも、
「戻らないと……戻らないといけないの!」
 戻る理由なんて本当はあるはずがないのに、
「だって……だって、あの人は――アイツはあそこじゃないと……ッ」
 あそこじゃないと、何だと言うのだろうか。
 殺せない?
 胸中で自問して鼻で笑う。
 何を言っているのだろうか私は。それこそ理人の言う通り、出合いさえすればどこでも殺せるのだ。住所を調べてあいつの家に乗り込んでもいい。だって今の私は幽霊だ。それにさっき渚さんを飛ばした力もある。人なんて簡単に殺せる。
 なら、なんで……こんなに……
「それに――お前が犯人を殺して何になる? 殺したってお前にはこれっぽちも特になるようなもんがないだろ!」
 そうだ。私以外にも殺された娘がいるんだ……なら犯人が死んだなんてよりも逮捕されて……しかるべき法に裁かれた方が被害者家族は安心する? 理人も? 母さんや父さんも?
 思考がごちゃごちゃになっていく。
 思考が暴れだす。思考が……まとまらなくなっていく。

 戻ラナイト。戻ル意味ガナイ。殺サナイト。殺ス意味ガナイ。行カナイト。ドコヘ?
「わた……しは……」
 何ヲスレバイイノ? 何ヲスル気ナノ? 戻レ! 何デ? 理人助けて。邪魔スルノナラ理人デモ殺セ。男ハミンナオ前ヲ襲ウ。嘘よ! 理人ダッテイツ襲ッテ来ルカワカラナイゾ!
「い……や……」
 理人ト居ル黒服ノ男ダッテイツカオ前ヲ襲ッテ来ルゾ。来ナイ!
 理人も彼も! 男が全員襲って来るなんて嘘よ!
 ダカラ戻ルノ。襲ワレナイヨウニ。
 どこに居ても襲われる時は襲われるわ! だったら! 少しでも守ってもらえる場所に私は行きたい! 居たい!

 聞こえる声は全部私。暗い声。妖しい声。脅えた声。悲しい声。全部私の声。
 でも、どの声もみんな戻れって言ってる。みんなアイツを殺せって言ってる。
 でも、そのどちらも嫌。もう気付いたから。自分が死んだ事に。幽霊だって事に。アイツを殺したって意味がないって事に。
 戻ルノ。殺スノ。戻ルノ。殺スノ。戻レ。殺セ。戻レ。殺セ。戻レ戻レ殺セ殺セ。戻殺戻殺戻。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 精一杯の拒絶。私の内側から来る悪意に対する唯一の対抗手段。
 声にだして、自分で自分を抱いて。
 幽霊だって言うのに体が震える。涙が出てくる。
「これでいいよ。原坂君。生身の場所は無理だけど、服とか手袋越しとかなら触れるはずだから」
 原坂……理人……り……と。
 理人!
 助けて!
「悪いな。柊」
「こういう言い方は……アレだけど……気をつけてね。今、彼女は自分の内側と戦ってるみたいだから……」
「ま、テキトーにな」
 すごく遠い場所から理人と女の子の話し声が聞こえる。
 さっきはすぐそばにみんないたはずなのに……。
 二人の会話がすごく遠い。
「玲奈……今、行く」
 ああ、りと。理人。理人!
 (くら)い昏い――誘うような強制するような声ばかりの私の世界に理人の声が割って入ってくる。そんなに大きい声でもないのに、理人の優しい声が。
 それだけで私はまだ耐えられる。耐える力が出てくる。
 震える身体を自分で抑えて、涙を堪えて……自分の中にある昏い声に負けないように。
 一瞬とも一生とも思える時間の中で、ふわりと、私の頬に何かが触れた。
「玲奈」
 そして耳元で聞こえたその声に私は恐る恐る――そして救いを求めて、目を開けた。



全てが終わる十一月三日


 目の前に理人がいた。
「あ……」
 理人が頬に触れている――その事実だけで、玲奈の心を覆う冷たい闇が氷解していくようだった。
「落ち着け。とりあえず深呼吸でもしろ」
 コクコクとうなずき、玲奈は言われたとおりに大きく息を吸ってゆっくりと吐く。
 それで落ち着けたかは分からないが、少なくとも多少は冷静にはなれた。
 理人を見つめ、手を伸ばす。だが、伸ばした手は彼の体を抜けて空を切る。
 改めて自分が幽霊――死んでしまったという事実を痛感し、パニックになりかける。
「……ぁ……」
 しかし、それは寸でのところで理人が制した。
 玲奈の右手を、理人の手袋越しながら暖かい両手が包みこむ。
「やめろよ。お前がそんな風にパニクって暴れるとこなんざ、見たくないんだからよ……」
 そして理人は辛そうにそう言った。
 玲奈は言葉が思いつかなかった。だから、理人の手の上に左手を乗せる事で、自分の思いを伝えた。


     ◆


「とりあえず、これで解決ですよね?」
「湖の畔で多発する怪我人の件は、ね。私たちがそれぞれ受けた依頼は解決だろうけど、警察から回ってきたのがあるだろう?」
 そうだった――玲奈の大丈夫そうな雰囲気を見て思わず、事件解決だと思ってしまっていたが、彼女を殺害した犯人に関してはまったくわかっていない。
 一番手っ取り早いのは、玲奈本人に聞くことであるが、さすがに躊躇いがある。うかつにそんなコトを訊けば、その質問がきっかけで再び『魔』に墜ちるかもしれないのだ。
 どうしたものかと遊華は首をかしげていると、横から咳払いが聞こえた。
 思わずそちらの方へと視線を向けると、逆真が二人の元へ向かってと歩き出しているところだった。
「感動シーンのところすまなんだが……」
 それから、二人の間に申し訳なさそうに入る。
「は、はい?」
 玲奈と理人は同時に恥ずかしそうな顔をしながら、逆真へと向き直る。
「実は訊きたい事があるんだが……」
 そこで一旦言葉を止めるのは、やはり逆真自身にもまだ躊躇いがあるからだろう。
 だが、そんな彼に助け舟を意外にも玲奈であった。
「私を殺した犯人……の事ですよね?」
「え……あ、ああ」
 まさか彼女自身からそう言ってくるのは予想外だったからだろう、逆真は一瞬だけ動きを止め、それから慌ててうなずく。
「しかし、本当にいいのかい?」
 自分から訊こうとしていながら、いいも何もないとは思うのだが、それでもやはり、そう訊いてしまう。
 幽霊が自らの形を保つ為に何より必要な物は強い意思だ。とりわけ、未練というものは強い。
 どうしてもやりたかった。どうしてもやり遂げられなければ死ぬに死ねない――そういう意思は強い。
 強いからこそ幽霊として形を保ちかつ、意思そのものと言える幽霊においての明確な行動原理となる。そして強すぎる意思はふとしたきっかけで綻び、歪み、自身を魔者(まもの)へと貶める。
 もちろん例外もあり、渚のように未練を断ったあとも、自らの強い意思でこの世に留まるということであるなら、形を保ち、存在できる。
 だが、玲奈はその『意思』がある特定の場所に自らを縛る程に強いのだ。それを断つということは、自らの消滅を意味する。
 未練は自らを未練たらしめるため、断たれた後も未練であろうとする。もし玲奈がこの世に留まりたいと思うのであれば、その意思が強くなければならい。未練が残す未練に打ち勝てるほどの強い意思が必要なのである。
 つまり、どんなに彼女がこの世に留まりたいと願っても、もしかしたら無理かもしれないのだ。
 そんな思いが、逆真、遊華の二人にはあった。
 だが、逆真にはもう一つ、懸念していることがある。
 玲奈が犯人を語る。
 それは彼女自身が殺された瞬間をいやがおうに思い出さざるを得ない話をするということだ。
 もしかしたら魔者へと本当に堕ちてしまうかもしれない。だがそれ以上に、本当にそんな事を思い出させていいのだろうか。
「大丈夫ですよ」
 逆真の心中を知ってか知らずか、玲奈は微笑む。
「理人が手を握っていてくれるから、あんな昏い感情に負けはしません」
 その逆真に向けられた笑顔は、逆真の知らない本来の表情なのかもしれない。理人にとっては極上と修飾するくらいの笑みだろう。だとしたらその笑顔を信じざるを得ないではないか。
「わかった。では訊こう――」
 逆真はうなずき、
「君を殺した犯人はどんなやつだい?」
 その質問を口にする。

 そして詠み人知らず歌であったはずの彼女は、自分を歌にした歌人の名を告げる。
 それはまるで、歌人と歌の立場を入れ替えるかのように。
 歌人の名に呪いと祈りを両方込めて――



閉 店 作 業(エピローグ)


「あー、もうもったいないなー」
 それは、俺と一緒にいる時の玲奈の口癖だった。
「せっかくいい髪質してるんだから、痛めつけるような事しないほうがいいよ。もったいない」
 俺が髪を染めて以降、人の顔を見る度にそう言ってくる。
 だから、一度だけ訊いた事があった。何でそんなに俺の髪にこだわるのか、って。
「んー……私さ、美容師になりたいんだ」
 だから人の髪質って気になるんだ――と、どこか照れるようにアイツは笑う。
「ああ、なるほどな。それで美容院でバイトしてるワケか」
「そ。私が美容師になれたら、お客一号になってくれない?」
「まぁ、万が一お前がなれたらな――カットだけなら構わないぜ」
「ほんと?」
 そう言って玲奈は嬉しそうに笑った。
「しかしな、お前は何やりたいか決まってていいよな」
「何、理人? 何にも決まってなかったりする? 明日って進路希望の提出日なのに?」
「ああ。まぁ、うちの担任曰く、どーせ二年の時にする希望調査なんざまともに見るワケじゃねーから、好き勝手書いてこいだとさ。戦士とか僧侶とかでもおーけーらしいから、今回は適当に出すけどよ」
「教師の発言としてどうかと思うわ、それ」
 それが生前の玲奈との最後の会話。
 最後の他愛のないおしゃべりと、言い換えてもいい。
 この翌日、俺はアイツに髪を切ってもらえなくなった事を知ることになった。


「……………」
 ぼんやりと、目を開ける。
 寝てたのかただ呆けていたのか、イマイチはっきりしない頭のまま空を見上げる。
 あいにくの曇り空だ。雨が降ってくる気配がないは救いかもしれない。
 咥えていたタバコを吸い、紫煙を吐き出すと、多少は意識が覚醒していく。
 ちゃんと吸った記憶がないのにもう半分近くまで灰になってるのを見ると、どうにも寝ていたらしい。
 チャイムが聞こえる。ポケットから携帯を出してみてみると、五時間目の開始の合図だった。
「ったりー……いいや、今日はこのままサボろう」
 学ランの内ポケットにある携帯灰皿を取り出して、今にも零れ落ちそうな灰を落とし、蓋を閉じる。
 結果だけ言えば、玲奈はもうこの世にいない。
 幽霊であってもこの世に留まる事は出来るってのに、玲奈は自ら消える事を選んだ。
 その理由が――
「幽霊とはいえ、私がこの世にいたら、理人は新しい女の子作れないでしょ」
 とか言うのだからふざけてる。
 深くため息をする代わりに、大きく吸った煙をゆっくりと吐き出した。
「そういや、進路希望調査書……まだ白紙だったな」
 そのせいで昨日、担任に注意されたことを思い出す。
 アラブの石油王とかウィリアム・ヘンリー・ゲイツ四世でもいいから書いて来いとか言われた気がする。
 あの時は、正直そういうネタでも書こうかと考えていたが、今は――
 自分の前髪を触りながら思案する。
「いい髪質……か」
 少なくとも、今現在、どうしてもやりたいものなんてないし、進学する気もほとんどない。希望調査書にニートとでも書いてやろうかと本気で思っていたほどだ。
 それならば、極僅かとはいえ興味を持った事に手を出すのも悪くないかもしれない。
 そう考えたら、何だか中学時代からダラダラしていた自分がアホらしくなってきた。
 いや、それには気がついていたのかもしれない。きっと、きっかけが欲しかっただけだ。
 そのきっかけというのが、皮肉にも本当に好きだった相手を失った事だというのだから笑えてくる。
 もうだいぶ短くなったタバコを最後の一吸いとばかりに一気に吸って思いっきり煙を吐く。それは小さな決意の表れでもあった。
 吸殻を携帯灰皿に放り込む。
「うし!」
 顔を叩いて気合を入れる。
 五時間目が終わったら白紙の進路希望調査書を取りに行こう。
 そしたら第三希望辺りに入れておくんだ。
 アイツの思いを引き継ぐなどと大それた事は言わない。
 ただ、興味が沸いた。だから、やってみようと思った。ソレを――


     ※


「失礼します」
 放課後、職員室へとやってきた遊華はまっすぐにとある教師の元へと向かう。
 遊華はその教師の授業は受けていないし、担任でもない。
 ただ単に、人から頼まれた物を渡しに来ただけだ。
胸野(むねの)先生」
「ん? なんですか?」
 テストの採点でもしていたのか、机に向かい何かしていた胸野は体を起こし、遊華に顔を向けた。
白いスーツに身を包んだ小柄で、神経質そうにも見え、どこか柔和そうにも見えるという変わった印象を受けるその教師に遊華は一枚の紙切れを渡す。
「これ――私の知り合いからです。本来なら本人が来て直接渡すべきなんでしょうけど、学校は嫌いだから校門で待ってるって言って聞かなかったので」
 胸野の耳にはきっとそんな遊華のぼやきなど聞きとっていないだろう。
 顔面を蒼白させ、目を白黒させながら受け取ったその書類を読み進めている。
「目撃者がいましたし、被害者からも証言が取れました。言い逃れはできませんよ」
 決して大きな声ではないのに、遊華の声は不思議と職員室に響く。
「う……ぐ……」
「――ですので、大人しく捕まってください。胸野せん――いえ、連続婦女暴行殺人事件容疑者胸野晴彦さん」
 彼女の言葉に職員室の空気は凍りついた。
 誰もがきっと冗談だと思っただろう。だが、冗談と笑い飛ばすには、胸野の挙動はあまりにも怪しすぎた。
「は――はは、何を言ってるんだい君は? 目撃者はいないって報道されてるし、何より被害者はみんな死んでるじゃないか」
 血走った目で乾いた笑みを浮かべながら必死にそう問いかけてくる。もしかしたら、本人は精一杯の冷静さを総動員しているつもりなのかもしれない。
「死人に口なし――という言葉は、実際には存在しないんですよ。それを知っているから、先生はわざわざオカルトのプロを尋ねたのではないんですか?」
「な、何を……」
「喫茶店『夕幻花』って知ってますよね。私はそこでバイトしてます。オカルト相談の何割かは私の仕事です――ここまで言えば、何が言いたいのか、理解できますよね」
「う……ぅ……」
 職員室の視線が全て、遊華と胸野へと集り、固唾を飲んで見守っている。
 まるで職員室に糸が張り詰めているようだ。そこら中に張りめぐった糸。一本でも切れると何が起こるかわからない。
「う……………」
 胸野が動きを止めた。それまで震えていた体も、呻いていた言葉も突然止まった。
 それが糸の切れた合図なのだろう。
 彼が動きを止めてから刹那、胸野はイスを蹴飛ばして立ち上がり遊華を殴りつける。
 とにかく、力任せなむちゃくちゃな一撃。
 遊華はそれを半歩引き、体を反らして避ける。
 胸野はそのまま、他の教師や机の間を縫って時には突き飛ばし、一気に職員室の入り口まで走る。
 それを遊華は追うが、なりふり構わない彼と違い、周囲を注意しながら走る分、かなり不利だ。
 そして、胸野がもう少しで入り口に手が届く、そんなタイミングで、ノックもせず無遠慮に一人の男子生徒が入ってきた。
「え?」
 完全に虚を突かれ、一瞬だけ胸野は動きを止める。
 男子生徒――理人が目の前にいる教師が胸野だと認識した瞬間、その顔に拳を叩き込んだ。
 床に倒れた胸野は殴られた頬を押さえながら、怯えたように理人を見上げる。
 それを汚物を見るような目で見ながら、理人は無造作に足を上げ、
「はい、ストップ」
 蹴り飛ばす前に、遊華が止めた。
「止めるなよ」
 足を下ろし不満げな理人に、
「止めるわよ」
 そう返して胸野へと向き直る。
 右手に霊気を乗せ、その手でさっと胸野の上着を撫でる。それで終わり。
「渚、お願い」
 他人には見えぬ友人はまかせとけとうなずいて、胸野を押さえつける。
「な、なんかが俺の上にいる?! なんだよおい! なんなんだよ!?」
 ジタバタともがく男を見、校門まで連れて行くのは無理と判断した遊華は携帯電話を取り出しコールする。
 だが校門で待っているであろう人物の着信音は、理人の背後という意外な場所から聞こえてきた。
 慌てて視線を向けると、何時の間に現れたのか、三十代後半から四十代前半くらいの渋い雰囲気の男が立っていた。
「よう」
 その男もまた無遠慮に職員室に入って来くる。それからやや大きめの声で職員たちに問う。
「校長先生はいらしゃいますか?」
「わ、私ですが――」
 それから男は校長の机へと向かい何か話し始める。
 その後ろ姿を見ながら、ある事に気がついた。
「渋山さん、もしかして最初から結果を知ってました」
 話し終え戻ってきた渋山に訊くと、
「まぁな。ウチには優秀なのがいるんでね。そっちの少年のウサを少しは晴らさせてやろうってハラさ」
 そう目を細めて答える。
「どうよ? 仇を一発殴れた気分は?」
「最低だな。最高にして、最低な気分だよ」
 渋山は理人のその答えに満足したのか、喉の奥で笑うと床で無様に寝転んでいる胸野の脇に片膝を立てる。
「気分はどうだい先生?」
 問うだけ問うて、答えも聞かずにその右手に手錠をかける。
「渚ちゃんだっけか? こいつの右手だけ自由にしてくれ」
 そして動かせるようになった胸野の右手を無理やりひっぱり左手首に近づけると、手錠のもう片一方を付けた。
「ありがとう。もう離れてくれていいぞ」
 言ってから数秒だけ待ち、胸野を無理やり立たせる。
「今の気分がどんなもんかはわからんがね、じきに最悪な気分になるさ。人生で一番最悪な気分にな」
 言って職員室の外で待機させていたらしい部下に引渡す。
 それから大きく息を吐くと遊華と理人へ向き直った。
「さて、協力してくれた礼代わりといっちゃなんだが、二人――じゃない三人か――メシでもおごるが、これからどうだ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。渚もOKだそうです」
「俺も。食うもの拒まずってな」
 二人の素直な反応に微笑み、それから職員全員へ騒がせた詫びと二人への追求をしないようして欲しいと告げ、渋山は職員室を後にする。
 それを追うように会釈をして遊華が退室。
 理人も一緒に出ようとして足を止めた。
 ポケットからくしゃくしゃに丸まった紙を取り出し、
「タケセン」
 担任に声を掛ける。
「た・け・も・と・先・生! だろうが」
 一連の事態で呆けているほかの教師と違い、なぜかきっちりとこちらの言葉を訂正してくる。
「いいじゃねーか何でも。ホラよ」
 こんなアウトローを気取った自分にも他の生徒と同様に扱ってくれるこの教師に多少なりとも好感を覚えつつ、先ほどの丸まった紙を投げ渡す。
「なんだコレ?」
「遅れて悪いな。でも、たしかに提出したぜ」
 廊下の方から遊華の呼ぶ声が聞こえる。
「ああ、今行く」
 それに答えてから、職員室を出ようとしてふと、足を止める。  最後に面倒くさそうに一言、
「失礼しました」
 そう告げてから、職員室の戸を閉めた。


 嵐は去ったはずなのに、事態を完全に理解しきれていない状況にある職員室で、一人冷静な竹本教諭は原坂理人から受け取った紙を広げる。

 進路希望調査書。
 第一希望 博徒
 第二希望 ニート
 第三希望 カリスマじゃない美容師

「ま、一つだけでもまともなものを書いて来るだけ他の不良よりも全然マシだな……それにしても、原坂がねぇ……」
 そう苦笑してから、皺を伸ばしてから丁寧に折りたたむと、他の生徒のものと同じように大切に自分の机へ保管した。



                                       ヨミビトを思い出す唄――closed





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