「センパイ、遅い」 彼女がようやく自宅のマンションまで帰ってくると、入り口の階段に腰を掛けた少女が不機嫌そうに声をかけて来る。 「あ、モモ。もう来てたんだ?」 「もう来てたんだ――じゃないですよ。 こんな時間に用があるから来てくれなんて、メール寄こして。自分はまだ帰ってきてないなんてヒドくないですかぁ?」 口調こそイヤミっぽくしてはいるが、表情そのものはまったく怒っていない。一応怒っているというポーズのつもりなんだろう。 「悪かったわ。とりあえず文句やその他モロモロはウチで、ね?」 素直に詫び、モモの横を過ぎて彼女はマンションへ中へと入ったとき、ふと足を止めた。 「モモ?」 名前を呼ぶが、モモは何かに驚いたようにこちらを凝視したまま動かない。 「センパイ――熱く……ないんですか?」 「え?」 唐突なモモの言葉に、彼女は訝しむ。 暑いもなにも、今は秋口だ。正直、この格好では若干肌寒く感じるくらいである。 「いや……背中――センパイの背中に火……付いてますよ?」 「え?」 軽い驚きと共に、背中へと手を回す。 同時に、自分の迂闊さに舌打ちをした。本当にモモの言うとおりなら、この手を火傷しかねない。 「……って、別に何もないじゃない」 「何もないって――燃え移ってますよ! 今、背中を触った右手に!」 こちらの右手を指差しながら、悲鳴のような声を上げるモモ。その姿は嘘を言っているようには見えないし、何よりモモはこんな手の込んだいたずらをするタイプではないことを彼女は良く知っている。 だが―― 「何もないじゃない……あんた寝ぼけてんの?」 やはり見たところで熱くないどころか何もない。 少しイライラしながら、彼女がモモへ向かって一歩踏み出すと、モモは一歩後ずさった。 「どんどん燃え盛って……熱くないんですかセンパイ! 本当に! ほとんど火達磨なのに! 熱く……本当に熱くないんですか!」 後輩の切羽詰った表情に血の昇りかけた頭が冷えていくのを感じた。 自分はモモという後輩を良く知っている人間だと思う。 闇雲に不安を煽るようなことはしないし、斜に構えているようで正義感がある。どんなに熱くなったとしても、頭の中は何時も冷静で、以前一緒になって怒っていたときも、状況の悪さにいち早く気がついた彼女がこちらをすぐに嗜めてくれたこともある。 モモのことは信頼しているし、信頼できると彼女は思っている。 間違っても今みたいに不必要な騒ぎをするような人間ではない事も知っている。 「じゃあ、まさか本当に……」 もしかしたら目に見えず熱くない炎が――信じられないことだが――自分を炎上させているのだとしたら……。 「センパイ……本当に大丈夫なんですかッ!」 「わたしは別に……」 大丈夫だ――そう言おうとした瞬間、全身を炎が舐めあげた。 「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁっぁあっ!!!!」 何が起きたのか分からなかった。ただ一瞬にして熱いと思った。 本当に自分に火がついていたのだ。ついさっきまで、目に見えず熱くもない火が。 それが――虚構だったはずの炎が急に現実に変わった。 「センパァァァイッ!」 モモの悲痛な叫びが響く。 自分も悲鳴を上げたかった。熱いと叫びたかった。助けを呼びたかった。 だが、口を開くと炎が舌を焼こうとしてくる。 だから口を閉じる。目が開けてられない。 自分が炎になったみたいで、熱くて熱くて熱くて熱くて熱くて熱くてもう熱いと感じられないくらいに熱い。 モモが誰かに助けを求めている声がぼんやりと聞こえる。 自分が立っているのかどうかが分からない。 熱いという感覚が酷く遠いものに感じてきた。 自分が自分の身体の外へと出て行くような――熱くなくなってきた。身体は動かない。 漠然と自分がどういう状況なのかを理解して、 私は…… 「最後まで迷惑をかけてごめんな、モモ」 渾身の力でそうつぶやいた。 それがモモに届いたのか、風に溶けたのか、はたまた炎に焼かれたのか。 結果が分からないまま、私は何も感じられなくなり、意識が……遠のいて…… ぼんやりとまるで空から自分を見下ろしているような感覚の中、マンションの影でこちらを覗き見しながら陰惨な笑みを浮かべている男を見た気がした。 見覚えのある男…… とある直感が私の脳裏に閃いた。 ああ……やっぱり、夜に声をかけて来る男に……ロクな野朗は……いやしねぇってことらしい…… † 「――で、あなたはその先輩を殺した犯人を捕まえてほしい……と?」 「はい」 うなずきながら、高野桃香は目の前に居るこの 年の頃はどう見たって十三歳前後。髪を左右で結ってツインテールにしており、それが尚のこと幼さを増してみせていた。 「話を聞いた限りだと状況は自然発火。目撃者もなくあなたが火を付けたようにも取れるけど?」 甘さや舌足らずさのない喋り方はさすがに板についているのだが、どうにもそのいかにも女の子といった可愛い声が、やっぱり幼さを引き立てる。 「ええ――同じ事を警察にも言われました……というか、一応、さっきまで容疑者として色々と聞かれてました」 「でも証拠不十分で釈放ってトコ?」 「はい」 うなずくと、姫在はふーんと言ってその目を細めた。 容姿の幼さからは程遠い……どこまでも妖しく瞳が光る。 「何でウチへ依頼しに来たの?」 その声を聞いた途端、背筋にゾクリとしたものが走った。こちらをどこかへと引きずり込むような――さっきまでと変わらないはずなのに――こちらを舐め溶かすかのような響きを感じる声。 良く分からないが思わず逃げ出したくなった気持ちを堪えて、はっきりと自分の理性を保たせるために桃香は答える。 「見えない炎」 「え?」 「センパイは、私に会った時から見えない炎に焼かれてたんです」 「どういうこと?」 今度はさっきのような気配はない。 何だったんだろう――桃香はそう思いながら、軽い安堵をして続ける。 「普通の人には見ることの出来ない炎がセンパイを焼いていた……でもそれは、裏を返すなら普通でない人の目には映る炎」 そう警察には敢えて言わなかった事実。 言った所で信じてはもらえないだろうし、ヘタをすればむしろこちらら精神病院へでも送り込まれてしまいそうな、フィクションのようなノンフィクション。 「ここは綾行が勤めてる事務所なんですよね? アイツがいる事務所なら、警察には話せなかった普通じゃない話が通じると思ったんですよ」 中学校の時のクラスメイトである それを頼って桃香はこの事務所へと足を運んだのである。彼と話をするつもりだったのだ。 しかし、生憎と流緒は仕事で外へと出ており、代わりに出てきたのがこの所長なのである。 「普通じゃない話? 何のことかしら?」 クスリと笑う仕草は、純真そうな容姿からは想像が付かないほど蠱惑的な悪魔の微笑だった。 再び背筋にゾクリとしたモノが走る。 先ほどと同じ、心そのものが引きずり出されるような不快ではない悪寒。挑発ともとれる艶やかな誘い。 「知らないなら教えてあげますよ」 明らかに普通ではない事をやっているだろう所長に対し、この吸い込まれるような感覚に飲み込まれたら負けると直感した。 何に負けるのか――は、重要ではなく、重要なのは負けたらきっと依頼どころか自分そのものが終わる気がするということだ。 こんな事になるのなら自力で――そうは思うが、あの炎の正体すら分からない。だから、探偵をしているという友人に会いに来た。 ところが、当の友人はいないし、話を聞いてくれるというこの所長はやる気があるのか無いのか、のらりくらりとしたやりとりの合間にこうして挑発するように、良く分からない気配を飛ばしてくる。 しかも飛ばしてくるのは、殺気や疑惑のようなものではなく、誘惑的な何か。 どこかコチラを試しているような気もするソレに、桃香はわざと試されてやろうと思った。 「――普通じゃない話の意味を!」 ソファから立ち上がると同時に、桃香の身体から緑色の霧のようなものが噴き出し始める。それは一瞬で彼女の傍でひと塊となり女性的な手の拳を作り上げると、 「そらぁッ!」 彼女が振るった拳の動きをあわせるように、霧の拳が姫在へと打ち落とされた。 猛烈な勢いで霧の拳は姫在が居たソファを打ち抜き、その中の綿とサスペンションを露出させる。 「え?」 だが、姫在はすでにソファから――いや、桃香の視界から居なくなっていた。 「―――――……」 同時に、耳元で何かささやかれる。 (後ろ!? いつの間に?) 「動いちゃ……だめでしょう? 力を抜いて……」 (………あ………) かくん……。 まるでその言葉が身体に絡みつくかのように耳から全身へと広がっていき、桃香の身体から力が抜け、糸の切れた人形のようにソファへと崩れ落ちた。 「ふふ……貴方のその ほとんど意識することなく、桃香はその言葉に従って、拳を先ほどの逆回しで自分の中へと納める。 「はい。よく出来ました。 今度は何も考えられなくなるよ……もう私の声しか聞こえなくなる……」 (あ……あ……) 何かとてつもなく危険なことの前兆のような気はしていたが、それが一体なんであるのか――桃香は深く考え始める前に、頭の中にモヤがかかり、目の前がザーザーとノイズが混じっていくかのように何も見えなくなっていた……。 「ふんふーん♪ るーくんがいないから、誰にもジャマされることなく、この子の味見を………」 「出来ると思ってます?」 姫在の独り言に被るように、その背後から声が聞こえた。 「み……美斗ちゃん!?」 慌ててその場から飛び退いて姫在が身構える。 「先輩から一応、綺麗な女性が依頼人で来たら所長に目を光らせろって言われてたんですけど……こういう意味だったんですね……」 「くぅ……るーくんめ、余計なことを……」 歯軋りしながら苦々しく呻く姫在を横に、美斗はぼーっとしている桃香へと歩みよる。 「何をするか知らないけど、この暗示を解かせるもんですか。 タイムリミット前の今の私なら、美斗ちゃんだって……」 先ほど同様、姫在が何かを呟く。同時に美斗は自分の顔を右手で触れた。 「美斗ちゃんも、身体の力を抜きましょう?」 姫在の言葉通り、すぐさま身体から力が抜けていくのを感じる。だが、それに出来うる限り抵抗して、美斗は頭に触れている右手に魂を籠めた。 「――っあッ!」 バチリと、目の前に火花が飛び散ったかのような錯覚。脳に強烈な電気を喰らったかのような衝撃と頭痛が走る。 「これ……ちょっとキツい……」 だが、全身から抜け出た力が急速に戻ってくるのが分かった。 「え? 美斗ちゃん――今の……?」 「綾行先輩考案の対所長用の必殺技です」 大きく息を吐いてから、答える。 頭の芯がズキズキとするのを堪えながら、桃香に対して自分がやったののと同じようなことを施した。 ビクン! と彼女は身体を震わせたあと、目に光が戻っていく。 「大丈夫ですか? うちの所長が失礼しました」 唐突に頭痛がした。 その直後、視界が開けていき、何時の間に現れたのか、所長とは違う女性がそう言って頭を下げた。 「え――あ……はい……」 耳元で何かささやかれた後のことをイマイチ思い出せない頭を振りながら、なんとか桃香はうなずく。 「何か美斗ちゃんの言い方、私が悪者みたい」 「というか、みたいじゃなくて、そう言ってるんですけど」 「ぶーぶー」 どうやら自分はこの所長に何かをされたらしい。まったく思い出せないのだが、姫在がなんらかの能力を使ったのは確かなようだ。 「お詫び――というワケではないですけど、貴女からの依頼、受けさせてもらいますよ」 「ちょっ……美斗ちゃん! 勝手に……」 「元々、受けるつもりだったんですよね? なら問題ないじゃないですか」 「…………出かける前にるーくんから何を聞いたの」 「それはもう色々と」 「ぷー」 しれっとした態度で美斗というらしい女性がそうやりこめると、所長は頬を膨らめせて不貞腐れる。その姿は本当に子供にしか見えない。 「じゃあ、美斗ちゃん。責任をもってこの依頼の担当お願いね」 「まぁ、そーくるとは思ってましたよ」 嘆息交じりにそうつぶやくと、美斗は改めて桃香の前へとやってきて頭を下げた。 「――そういうワケで今回の依頼を担当させてもらいます、笠鷺美斗です。よろしくお願いします」 まだすっきりとしない頭の中で、少なくとも普通の人ではどうすることの出来ないだろう犯人探しの協力者を得れたことだけ理解すると、 「こちらこそ、よろしくお願いします」 美斗か差し出してきたその手を力強く握り返した。 (待ってなさいよ。センパイを燃やしたクソ野朗! 絶対にブン殴ってやるから!) 同時に桃香は胸中で犯人に対して宣戦布告をするのだった。 7/ Friend - Hell Hound 〜 To Be Continued |