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路地裏のDear My Sister



「痛ッてて……へへへっ……結構稼げたな」
 口元の血を拭い、手元のお札を数える。
 右目を腫らし、体中青痣だらけの姿で――それでも、嬉しそうに横にいる妹へと笑顔を向けた。
「これで、今日明日のメシには困らないぜ」
 まだあどけなさを残す少年の粗野ながら妹を思うどこまでも優しい笑顔。
 そんな兄を見て、やや彼よりも年の離れた妹も喜ぶが、同時にひどく不安げな顔をする。
「お兄ちゃん、怪我は大丈夫?」
「ああ」
 その妹の不安を払拭してやるかのように、兄は彼女の頭に手を乗せてた。
「無理しちゃダメだよ?」
「分かってるよ――だがよ、身寄りもコネもねぇオレ達がこの街でやってくにゃ、こうやって稼がないとならねぇからな。お前の為だって思えば大したこっちゃねぇよ」
「………うん」
 小さくうなずく妹は一体何を思ったか。
 分かっていても感情が納得しないのか、弱い自分を呪ったか、はたまた自分達をこんな状態に追いやった原因を怨んだか。
 何であれ、彼女とて理解をしているのは確かだろう。ああやって兄がストリートファイトで稼がなければ、少なくとも自分達がやっていけないことを。
 弱肉強食。この街は――サウスタウンはそういう街だ。特にこのスラム街は。
 そんな危険な街で懸命に生きているそんな健気な兄妹を横目に見ながらデュークは裏路地を歩いていく。
 目指すのはこの地区にあるとあるアパート。全体的にあまり背丈のある建物の少ないこの地区には珍しい、五階建てのアパートのその一番上の部屋。そこが今、デュークが目指している場所だ。
 まともに手入れのされている気配のない安いボロアパート。手の届く範囲の壁にはウォールペイントがしてあり、一階の部屋の窓ガラスは何故か軒並み割れている。
 当然の事ながらこんなボロアパートにはエレベータなどは存在しない。ウォールペイントとは程遠い下世話な落書きが所狭しと描かれた狭く薄暗い階段を登って、彼はその部屋へと辿り着く。
 ポケットから小さな鍵を取り出し、玄関を開ける。
 そこは――名義こそ違うが――彼が借りている部屋であった。
 もちろんサウスタウンをつい先日まで牛耳っていたギャング団<メフィストフェレス>のボスであったデュークの自宅がこんな質素なわけがない。
 ここは本邸とは別に、デュークが借りている使う予定ない部屋だ。もちろん何かあったときの隠れ家に使えなくもないが、それでも滅多に使う部屋ではない。
 随分と長い事手入れのされていない為、埃が溜まり放題の部屋を抜けて窓際へと歩む。
 夕陽が差し込むその窓際には小さなテーブルと、小さな椅子が二脚。
 テーブルと、自分が座る椅子の埃を手で適当に払って、デュークは腰を掛ける。
 かつて妹とも住んでいた部屋に良く似たこの部屋に、デューク本人もなぜ来たのかはわからない。ただ単にほんの少しだけセンチメンタルに浸りたくなっただけかもしれないし、そうではないかもしれない。
 ただ少なくとも、ここへ来る途中に居た兄妹を見て、捨てたつもりの過去を思い出したのは確かである。
 過去とは断ち切るべきもので、そして未来へと進むべきだ――誰かがそう言った。その言葉はその通りだと思うし、過去に囚われすぎている人間はどこまで強くあろうともいずれは壁にぶつかる。その事はデューク自身理解してはいる。だが反面、断ち切りたくない過去というのも存在するのではないかと、彼は今――考えていた。
 テーブルの上の埃を軽く払い、来る前に買ってきたワインのボトルを置く。
 封を切り、ボトルごと飲もうと思ったのだが、ふと――以前ここへ来た時に気まぐれで買ったワイングラスが在ったことを思い出し、流しへと向かった。
 二つのグラスは寄り添いあうようにそこに並び、埃をかぶりながらも健気に存在をアピールしようとしている。その姿に、先ほどの兄妹と――そして、二十年以上も前の自分達が懸命に生きようとしている姿を幻視して苦笑した。
「まったく――今日の俺は感傷が過ぎる」
 大嫌いな首の傷に触れながら、そう独りごちる。
 水道から水が出るのを確認すると、彼のごつごつとした手でグラスを割らないように丁寧に洗い、今度は雑巾を湿し、テーブルへと歩む。
「まぁ、せっかくだからな」
 小さなテーブルと、そして両方の椅子の腰掛と背もたれをざっと拭くと、グラスをテーブルの上に二つ並べた。
 一つは自分の――もう一つは、向かいの椅子の前に。
 二つのグラスにワインを注ぎ、デュークは対面のグラスと小さく乾杯をして一気に煽った。
「もしお前が生きて、酒を飲めるようになったのなら――俺と同じザルだったのか、それとも俺に似ず下戸だったのか……気になるところではあるな」
 夕陽に照らされ昏い朱色に染まっていく街を見下ろしながら、今は亡き妹に問う。
「俺は――お前が死ぬまでの間、いい兄でいられたと思うか?」
 当時のままの妹が目の前に現れ、イエスともノーとも取りがたく笑顔を浮かべ消えて行く。
 自分の命を救うために、ギャングの犬に成り下がった兄を彼女はどう思っていたのか、今はもう知る術はない。だが少なくともデュークは、病気であった妹に対して出来る精一杯の事をしたと思っている。
「ほんとうに、か?」
 苦笑交じりに苦笑いを浮かべると、空になった自分のグラスではなく、妹の為に注いだグラスを手にした。
「お前が飲まないのなら、俺がもらうぞ?」
 人間を辞めるほどの事をしてまで助けたかった妹は、当時最新の医療設備の元でも結局助かる事無く病に負けてしまった。
 当時はそれこそ、妹を失ったショックもあったがそれ以上に、妹をちゃんとした病院に入院させてくれた自分の上にいる人間に感謝をしたものだが、現在その時の事を深読みすると上層部はデュークという狂犬を飼い殺しにする為に、妹を病死と言う形にしたのではないか、と――考えてしまう事もある。
(案外――事実かもしれんがな)
 だが、それが事実であったとしても今のデュークにはそれを証明する術はない。
 首の傷を一撫でして、グラスを二つ持って椅子を立つ。
 それを先のように丁寧に洗い、持っていたハンカチで優しく拭いてやると、もと在った場所へと置いてやる。今度はハンカチを埃避けにと上に被せて。
「また――来るか」
 誰にともなくつぶやいて、デュークは部屋を出て鍵を掛ける。
 昔、自分達兄妹が住んでいたアパートと似ているだけのその部屋に――だがそれでも何かのうまく説明できな想いを込めながら、デュークはアパートを出た。
 その時、
「ん?」
 どん――何かにぶつかり、足を止める。
「ご……ごめんなさい……」
 声のした方を見ると、見覚えのあるまだ幼い少女が一人、尻餅をついたような姿勢で、目に涙を溜めながらデュークを見上げていた。
「構わん。この程度の事でお前を取って食ったりなどするつもりはない」
 そう言ってその場を立ち去ろうとしたデュークの服の裾を立ち上がった少女が捕まえた。
「何か用か?」
 何かを搾り出すように、小さな手で強く服を掴むその少女は、どうやらぶつかったデュークに怯えて目を潤ませていたのではないようである。
「おじさん……強い人?」
「ああ」
 少し思案してから、デュークはうなずいた。少なくともその辺にいるチンピラなどより遥かに強いのは確かだ。
 すると少女はポケットから硬貨を数枚出して差し出してくる。額にして17セント。
「何のつもりだ?」
「助けて……欲しいの」
 この少女は目の前の人物をどう思っているのだろうか。失脚したとはいえ、元ギャングのボスだ。腕っ節の強さも半端なものではない。仮に彼を雇うというのであれば、少なくともこの万倍の契約金が必要であろう。
「お兄ちゃんを助けて欲しいの!」
 だが、その必死な少女の姿が、デュークの目にはなぜか幼い日の妹の姿と重なった。似ても似つかない容姿だというのに。
 もしかしたら、これは妹からのメッセージではないか。昔は自分もこのくらい兄を心配していたのだ――という。
 そんな空想をデュークは頭を振って振り払う。
(死者は黙して語らず、だ)
 そう、幽霊などいないはずだ。
 デュークは冷たい目で少女を見下ろす。
「その金では足りん」
「そ、そんなぁ――」
 その一言に、溜まりに溜まった涙が少女の頬を伝う。自らのズボンを強く握り締めた左手はさらに力がこもり、お金を差し出すために開いた右手はきつく閉じられた。
「だが――」
 首の古傷に触れながら、デュークはそう言葉の続きを口にする。
「お前が俺の女になる――と、言うのであれば話は別だ」
 それがどんな意味であるのか、この幼き少女にも理解できよう。少なくともうなずけば兄と離れ離れになる。だがうなずかなければ兄は助からない……その程度の理解はできただろう。
 そうこれはある意味、彼女にとっては究極の二択だ。
 そしてデューク自身、これに対して彼女がどうするかに、いたく興味があった。きっとそれは、彼女に妹の姿が重なったからだろう。彼女の想いはすなわち、かつての自分の妹が抱いていた想いと同じではないのか――そう思ったからだ。
 こんな自分を親の敵として寝首を掻かんとしている女がみたら何と思うか。呆れるのか、笑うのか、それとも――
 そんな意味のない空想が終わる頃、少女は意を決した表情でデュークにうなずいた。
「わかったわ……でも、ちゃんとお兄ちゃんを助けてるれるんだよね?」
「ああ。お前が俺の物になると誓うのであれば、な――それがお前と俺の契約だ。必ずその契約を果たそう」
 彼がそううなずくと、少女はうなずき返した。
「お願いします」
 もしかしたら、これで兄との今生の別れになるかもしれないというのに少女の目は、先の潤目からは想像も出来ないような光を湛えていた。何かを決意し覚悟した光。
 ギラついた目と言えなくもないその目は、どんな屈辱を味わおうと、どんな恥辱に塗れようと、泥水を啜ってでも生き抜いて必ず兄と再会を果たしてみせる――そんな、そう言うなればこのサウスタウンに相応しい餓えた狼のような目だ。
 だが、
(これはまるで……妹を守ろうとしていた俺ではないか……)
 少女の瞳から汲み取った意志にそう感じたデュークは同時に、ある閃きを得た。
「なるほど……な」
 自然、口の端が歪む。
「あの……」
 何時までたっても動こうとしないデュークを不信に思ったのか少女が声を掛けてくる。
「ああ……そうだった、な。さぁ――お前の兄のところまで案内しろ」
 こくりと彼女はうなずいてから駆け出す。その後をデュークが追う。
 案内された場所は来る時にこの兄妹を見かけた裏路地。そこで、五人の男が彼らの平均年齢よりも若干低いだろう少年を囲って暴力を振るっている。
「汚ぇぞ! 一対一(ガチ)じゃねぇのかよ!」 「ハッ! ストリートファイトに汚ぇも何もねぇだろ?」
「何でもありの路上ケンカの事を言うんだからな!」
 中央の少年を嘲笑うかのように周囲のチンピラ達は口々にそんな事を告げる。
「お前らの言う事は一理ある。だがそれが賭け試合であるのなら最低限のマナーもあるだろう」
「あん?」
 調子よく少年をリンチにしてその上で金も巻き上げられる――そんな卑下た喜びを味わっていた男達は突然割って入って来た野太い声に、いっせいに顔を向けた。
「リィン!?」
 中央にいた少年も顔を上げてこちらを見、デュークの横にいる妹を見つけて目を丸くした。
「オレは逃げろっ……って」
 意気も絶え絶えに言う兄に、少女――リィンは首を横に振った。
「リィンというのか――このガキは――とにかく、リィンが俺に助けを求めてきた。そしてとある契約を交し合った。リィンが出した契約条件は兄……つまりお前を助けることだ」
「……え?」
 兄の顔色が変わる。
 そして、周囲の男どもの顔色も。
「なんだオッサン? 戦ンのかオイ?」
 凄んでくるチンピラ達。だが本当の意味での凄みというのであるのならば、リィンの覚悟を決めた瞳の方がよほど強い。
「お前達が集団で襲っているそっちのガキとお前らの誰かは賭けファイトをしようとしたのではないのか?」
 チンピラ達の睨みなどまったく意に反さず、デュークは問う。
「ああ。そうだよ? だからこうやって俺達対ガキのファイトをだな――」
「ふん。これだから品性もプライドの欠片もないチンピラは……」
 ニヤニヤとしながら問いに答えていた男の言葉の途中で、デュークはこれ見よがしに嘆息した。
「ンだとッ!?」
「賭けファイトである以上、賭け金(チップ)を払いあった者同士の戦いだろう。何も賭けていないのであれば親友だろうが愛人だろうがギャラリー以外の何もでもない。それがこの街――サウスタウン流の賭けファイトだろう」
「はン! だから、その金は俺達全員の金なんだから問題ねぇだろうが!」
 チンピラの一人がいって全員がそうだそうだと大笑いをする。
 デュークは首の傷を触りながら、そんな彼らを見下すように口の端を吊り上げた。
「くだらん理屈だな。お前ら全員の金だと? 心底くだらんな。つまりそれは使うたびに全員で相談して使うのか? お前ら如きが? そんなもの何に使うかでどうせケンカになるだけだろうが。
 そんなくだらん嘘を付くと言う事は、だ――お前達ひとりひとりではそこのガキに勝てないと踏んだという証拠ではないのか?」
 チンピラ達の顔が怒りで紅くなっていく。それを分かっていながらデュークは続ける。
「そんな事ではこの街では生きていけんぞ? 仮にそこの息も絶え絶えなガキををお前らが集団で襲い殺してしまったとしても、だ。逃げ出したそいつの妹が、いずれ力を付けてお前らに復讐するだろうよ。
 もっとも、その前にお前らのような集団でしか動けない雑魚は地獄へ堕ちるだけだろうからな。結局リィンは復讐を果たせず不完全燃焼してしまうだろうよ」
 一山いくらのチンピラ風情とはいえ、それなりのプライドはあったのだろう。目を吊り上げて、ナイフを取り出したら近くに落ちてる鉄パイプを拾ったりしながら全員がデュークに敵意をむき出しになっている。
「いいだろう。まとめて掛かってくるがいい」
 最後にもう一撫で首の傷に触れてから、
「お前ら如きに一分もいらん」
 デュークは構えた。
「来るがいい! 雑魚ども!」


 そして宣言どおり、デュークは五人を一分も掛からないうちに全員を叩き伏せた。
 全員意識がないのか呻き声すら聞こえない。
 それを見渡し、全員がすぐに起き上がる気配が無い事を確認するとデュークはその裏路地に背を向けた。
「約束は果たした。行くぞリィン」
「何だ? どう言う事だ!?」
 少年が叫ぶがそれを聞き流し、デュークは目でリィンを呼ぶ。
 リィンは兄とデュークの間で視線をしばらく泳がせてから、やがて――
「ごめんね、お兄ちゃん」
 蚊の泣く様な小さな声でつぶやいてデュークへと駆け寄って来る。
「ンだよッ……それは!」
 背後で少年の声が響く。決して大きくはない。傷が痛むせいで大きい声は出せないのだろう。だがその声は確かに力強く裏路地に響いた。
 デュークはゆっくりと背後に向き直ると、
「ほぅ」
 小さく驚嘆した。
 五人ものチンピラか同時に暴行を受けていたはずの少年は、よろよろとしながらも立ち上がりリィンの見せたものとそっくり輝きを目に湛えデュークを睨みつけてきた。
「先ほど言っただろう? 契約だよ。リィンはお前を助けて欲しいと言って来た。だから俺は交換条件としてリィンに俺の物になれと言った。そして互いの合意の元で契約が交わされたのだ。何もおかしな事などあるまい?」
「本当――なのか? ……リィン」
 こくりと、言葉を発せずうなずくリィンに少年はただ下唇を噛み締めた。
「悪いのはお前だぞ?」
「……アンタに言われなくても分かってるよ……ッ」
 吐き捨てるように、少年は苦々しく言った。
「俺が……あの程度の連中に、集団で襲われても勝てるだけの力があれば問題なかったんだ!」
「理解してるではないか。なぜそれほど悔しがる? これはこの街では当たり前の事だろう?」
「分かってんだよッ! だけどな! ハイそーですかって納得は出来ねぇんだよ!」
「ならば……」
 デュークはリィンに手で放れていろと合図をし、首の傷を撫でてから構えた。
「掛かってくるがいい。俺はリィンを賭けてやろう。だが、お前は命を賭けろ」
 少年の目の色が変わる。自分の無力に嘆いた目ではなく、命を賭してでも妹を取り替えそうと言う覚悟の目。
 傷だらけで血塗れで痣だらけで――立つのもやっとであろう少年は、それでも力強く自らが独学で生み出したであろう喧嘩殺法の構えを取った。
 デュークはそこにかつての自分を見、今日何度目かの苦笑を胸中でした。
(今日は本当に過去ばかり思い出す)
 デュークと兄。結果はきっと、リィンは分かっているだろう。兄は勝てない。少年も理解はしているはずだ。自分とデュークの格の違いを。だがそれでもこの兄は、妹の為に自らでは歯が立たぬであろう狂犬に牙を向ける。
「いくぜぇぇぇぇぇぇッ!!」
「来いッ!」
 戦法も何もあったものではない突進。そこから繰り出す全身全霊の力を込めた最初で最後の拳。
 満身創痍で立っているのもやっとであろう少年に出来る唯一の選択肢。
 そこらで寝転がっているチンピラ共であるのならそれを避けるという事をしただろう。だが、デュークはそれをしなかった。
 汚い事を色々しているギャング団のボス。腕も立つが頭も切れ様々な謀略を駆使する男。生き延びるためなら逃げる事を厭わない。色々と言われているデュークであるが、それでも彼自身もまた、サウスタウンではないが似たようなスラム街出身の人間である。彼がもし少年の立場であるのなら、避けられ弱ったところに一撃を食らっても納得できないだろう。賭けファイトにもっとも必要なのは互いの賭け金(チップ)を納得してやり取りできる結果である。だからこそ賭けファイトは成立するのだ。先ほどのチンピラ共のやり方では納得できるのは一方だけになる。それでは賭けファイトにはならない。一方的なリンチだ。
 そう納得だ。必要なのは双方の納得である。
 だからこそ――デュークは少年の一撃に賭けた真っ向勝負を受けてたったのだ。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
「ぬぅぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」



 路上で大の字横たわるのは、やはり少年の方であった。
 歯を食い締め、涙を流している。その涙を必死に堪えようとしているのだろう事は分かるのだが、とめどなく溢れてくるのだろう。それを拭おうにも身体は動かす事は出来ず、涙が頬を流れ続ける。
「う……っく……ごめんな……リィン……」
 悔しそうにそう告げる兄にリィンは激しく首を横に振った。
「絶対……お前を迎えに……行ってやるからな」
「うん……わたしも絶対……お兄ちゃんのところへ戻ってくる……」
 何かに耐えるように掠れた声で、彼女は持っていたハンカチで兄の涙を拭うと立ち上がり、デュークの方へと向き直った。
「もういいのか?」
「……うん……」
 涙を見せない気丈な少女にデュークは胸中でもう幾度目かの苦笑いを浮かべた。
(まったく――今日の俺はどうもおかしい)
 少年の拳がめり込んだ自分の腹部に触れ、少年へと視線を向ける。
 多少の攻撃を受けたところでデュークにはほとんど効く事はない。だがこの少年は、そのデュークに多少なりとも痛みを与える事に成功したのだ。
(こんなガキが――多少なりとも俺にダメージを与えるとはな)
 そしてデュークはこれからする自分の行為に自嘲してから、近寄ってくるリィンを突き飛ばした。
 少女は目を見開き、兄のすぐ傍で尻餅をつく。
「何の……つもり、だ?」
 目を白黒させている妹の代わりに兄が問い掛けてくる。
「思いもよらないダメージを受けたからな。この俺にこれだけのダメージを与えられる奴はそういない。その褒美のようなものだ」
「でも――わたしは……」
 リィンの言いたい事は理解している。デュークは彼女が全てを言い終える前に告げた。
「お前は俺の物になったのだろう? 俺が好きに扱っても良いはずだ。俺は褒美としてお前をそこで情けなく涙を流してるガキにくれてやったんだ。お前はそいつの物になればいい」
「だけどよ……オレはお前に……」
「くどい! お前は敗者だ。勝者に口答えする権利などない。それに――」
 言葉を切り、首を撫でてから告げる。
「俺はロリコンじゃあないんだ。年齢的には最低でも後八年は欲しいところだな。欲を言えば胸も大きめの方が好みだ。今のリィンじゃあ俺の好みに合わん」
 そして言うだけ言うとデュークはくるりと背を向けて歩き始めた。
 だが、
「とはいえ、これはリィンを捨てる事になるのか……?」
 首を傾げて一旦足を止めると、兄妹の方へと向き直った。
 デュークは懐から札束を一つ取り出すと、リィンへと投げつけた。
「手切れ金だ。それを元手にこの街で伸し上がるか、別の街へ逃げるかはお前ら次第だ。
 ついでにお節介を言わせてもらえば、とっととそこから立ち去らんと、その金を――」
 彼は突然言葉を止めると、喉の奥で小さく笑った。
「くっくっく……いや、どうやら伝説の狼が古巣に子狼を連れて帰ってきたようだ。その金を奪われる事はなさそうだな」
 気配のする方へとチラリと視線を向けてからデュークは踵を反す。
 そして、首だけを兄妹の方へ向け、
「リィン――お前はいい女になる。俺が保障してやろう。そして何年か経って気が向いたら俺の元へ来い。もし俺好みの女になっているようなら俺がもっといい女にしてやろう」
 首を撫でながらそう告げると、デュークは今度こそ裏路地を後にした。


 路地から出た際のすれ違いざま――
「鬼の目にも涙ってやつかい?」
「そう思うのならば、怪我が癒えるまでの間だけでもあの兄妹を守ってやるのだな」
「OK」
 鬼と狼は一瞬だけ言葉を交わし、そして離れて行った。

「いいのかよテリー? アイツを見逃しちまって」
「ああ。アイツの心を動かした、新しい狼のナイスファイトに免じてな」



 ようするに――スラムで生きる兄妹は、力を持つ兄はその力でもって妹を守り明日の為に戦う。力なき妹は兄を想いその身を捨てでも兄を守ろうとする事で今日を生きる。
 それはきっと自分達も例外ではなかったのだろう。
 病弱で線の細い――見た目だけなら華奢であったデュークの妹もきっと、先の兄妹のような状況になれば同じように自らを捨ててでも兄であるデュークを助けようとしたに違いない。
 それが分かっただけでも……もしかしたら収穫があった一日といえたかもしれない。

 かつてデュークが壊滅させた組織に所属していた人間の娘を気まぐれで自分の愛人にし、暗殺者として育て上げた。彼女が復讐を狙っている事をデュークとて承知している。
 その女はきっと、なぜ自分が生かされたのかを疑問に思っていることだろう。
 その事を考えると自然と、口の端が歪んだ。
「ふ――もし、生かしておいた理由が、死んだ妹の代わりが欲しかっただけだ……と言ったらアイツはどうするのだろうな」
 デュークは首元に触れ細い三日月に向かってつぶやくそんな独白は、スラム特有のすえた夜気に溶けて風に流れていった。




路地裏のDear My Sister - closed  







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